日本明慧
中国警察は法輪功修煉者覃永潔に赤くなるほど加熱した鉄棒を使って、13ヶ所もの見るも無残な火傷を負わせた。
覃永傑は広東省のある保安部門に勤めており、98年6月から法輪功を修煉しはじめた。1999年江沢民集団の法輪功弾圧以来、彼は99年7月と10月、2000年4月と7月の前後4回拘禁所に入れられ、毎回非合法的に約15日間収監され、彼はずっと法輪功をやめることを断固拒否した。

2001年4月26日、4・25事件2周年の翌日の夜、覃永傑は法輪功の弾圧を中止させるため、資料を配っていた時、警察に逮捕された、ひどく殴られた。翌日非合法的に広東博羅の一つの労働改造農場に拘束された。彼の話によると、そこは本当に人間の地獄である。管理員は自由に木の棒、竹の棒、ベルトなどで法輪功学員を鞭打った。強制された労働教育の1ヶ月の間に、彼は始末書や保証書を書くことを拒否したため、また法輪功修煉の放棄を拒否したため、何回も管理員に殴られた。ある時、彼は煉功したため、管理員に手錠を窓際でかけられ、5時間も両足が地面から離れたままで、両手は血跡がついた。

6月2日、管理員3人はまた彼を虐待した。まず殴って、始末書を書くことを迫った。彼はずっと黙ったままであった。そして、管理員は彼を柱に縛ったまま、一人の管理人は錆っている鉄の棒を持って、電気ストーブの上で加熱し、覃永傑の両足に十何箇所の火傷を負わせ、まだ法輪功を続けるか聞いた。火傷の傷口はひどく、彼は全身震えて、大声で叫んだ。小便失禁するほど苦しかった。その後、覃永傑は外へ連れられ、特別監禁室へ投げ込まれた。その後管理員は、彼が歩くことも難しく、また眠れないほどの痛みを感じていることを分かっているにも拘らず、果樹園の守衛管理を命令した。果樹園は管理員が監視しきれない部分があるため、彼は労働改造農場から脱出することができた。

脱出した後、彼は輸送車に乗って、香港まで逃げた。6月10日コンテナー船に乗って、海上で約半月流浪し、艱難辛苦をなめ尽くし、やっと6月24日にカリフォルニア州の長島に到着した。言葉が通じないため、あちらこちらで助けてもらい、一人の心やさしい老人が車に乗せてくれた。ヒューストンに到着した時彼の所持金はゼロだった。当地の警察に救助してもらった後、「希望の星」という救済所に送られた。7月13日、彼がシャワーを浴びている時、火傷の傷口がただれたため、公園広場病院に送られ治療を受けた。医者は三級火傷と診断した。傷口は全部で十三ヶ所あり、筋肉の中に進入し、もうすぐ2ヶ月経つのに、傷口は依然としてひどかった。傷口の面積が過大し、深すぎるので、癒着することができない。医者は彼に植皮手術をしてあげたため、彼は間もなく退院できるだろう。

彼のヒューストン公園広場病院の治療期間中、病院の医療看護人員、当地の慈善機構の人員、警察、法輪功学員たちなど、中国やアメリカの人士が熱意を持って、関心と助けを捧げてくれた。7月27日と28日、ヒューストンの各マスコミ関係者、CBS11チャンネルテレビ、ABC13チャンネルテレビ、NBC2チャンネルテレビ、Fox26チャンネルテレビ、WB39チャンネルテレビ、ヒューストン記事新聞、世界日報などそれぞれが、公園広場病院 覃永傑の病室で彼を取材し、報道した。記者がどんな感想を持っているかをインタビューしたとき、彼は「中国大陸の労働改造農場にいた時は、人間の地獄のように感じた。しかしここにいるときは、人々はみんなやさしくて、本当に別の世界のように感じている」と言った。彼は、自分はただ迫害された、数え切れないほどの法輪功学員の中の一人で、中国でまだたくさんの法輪功学員が彼よりもっと残酷な迫害を受けていると表明した。  

不完全な統計によると、今まで、少なくとも250人の法輪功学員が迫害され、死亡した。過去の一ヶ月に少なくとも50人以上の法輪功学員虐殺された。500人以上の人が非法に判決され、600人以上の人が強制的に精神病院に入れられた。10000人以上の人が法律で裁判もなく、刑務所に入れられた。50000人以上の人が逮捕され、あるいは収監された。数え切れないほどの法輪功学員が警察の拷問と虐待を受け、覃永傑はただその中の一人に過ぎない。私たちは全社会の正義と善良をもつ人々、機構および政府機関に、迫害されている法輪功学員に注目し、援救するよう呼びかける。また、江沢民政権が法輪功学員への残酷な迫害と悪らつな虐殺を制止することを呼びかける。