日本明慧

実証科学の限界への認識


文/ある大学の修煉者

【明慧ネット】現代人の観念は実証科学の産物であり、その発展に伴っている。仮に、この観念を“実証思想”とすると、物質による影響により精神面も左右されることとなり、“実証科学の物質に対する認識”が、人の精神世界を抑制し、思想観念を形成することになる。人間のすべての行為は思想の指図を受けており、ある観念が働いた結果であり、“実証科学の発展に対する認識”も同様である。一旦このような認識が形成されると、それにより実証科学における発展は指導されるようになる。従って、認識された領域で形成された観念や思惟方法をもって、未知の領域への探求を続けるということになるが、拡大していく領域や発展に同調するには、思想観念や思惟方法も、変えていかなければならないであろう。

人がこのような方法や発展路線を歩んでしまう根本は何にあるのだろうか。認識された領域内で形成された“無神論の指導下”で発展を試みようとするならば、思想観念、思惟方法を変える必要があるだろう。“有神論の指導下”でも同様な方法、発展路線を歩んでいただろうか。周知のとおり、中国古代において、人の思想観念、生活様式などは現在とまったく異なり、人々はほぼ宗教を信じ、神の存在を信じていた。人々の事物に対する認識もまったく異なり、現在の科学では理解しがたいものがある。例を挙げると、東洋医学、周易などがそうであろう。単に理解できない、間違いであると決め付けること自体が間違いではなかろうか。現代科学では解明できない謎はあまりにも多く、事物の本質を明確に把握しているとは、とても言い切れない。実際、人の思惟はあまりにも狭く、思想は保守的であり、頑迷に現代科学の角度、実証科学の認識に固執しているからである。“有神論”、“無神論”という二つの思想は、二つの思惟方法をもたらし、事物、科学に対する認識も、物質世界あるいは宇宙に対する違う角度からの認識、反映された事物の違う範囲内、違う条件下での現れである。現代科学の角度と中国古代科学の角度からみた事物の表れが、同じであろうか。マクロ世界の事物の現れとミクロ世界、さらなるミクロ世界の事物の現れが同じであろうか。果たして、ニュートン力学がミクロ世界で適応されるであろうか。量子力学に取って代わることができるのか。不可能であろう。これこそ違う思想の指導がもたらした違う認識である。もし中国古代科学の角度から事物を認識すると、実証科学の思想指導は適応できなくなる。もし固有の思想観念、固有の思惟方式を捨てれば、違う角度から事物を認識し、科学を発展させることも可能となるであろう。一部に触れたことで、それがすべてだと言うのであれば、無知の表現ではなかろうか。明らかに多くの解明できない現象があるのに、他人が認識し、違う角度で解明したにも関わらず、あえて認めることなく人と争うことは、あまりにも視野が狭くはなかろうか。

また違う角度から説明すると、実証科学も保守的になるべきではなく、実証科学において物質が精神を決定するのであれば、数多くの超常現象が認識されたときには、精神的な認識も当然変わることであろう。さもなければ物質と精神に対する認識は、認識できる領域内に限定されるということになる。“無神論”、“有神論”、“進化論”などがこのようではないだろうか。ゾウの耳を触った人が間違っているという時、その角度から撫でてみて、目を見開きゾウを見てみるべきであろう。他人が言うことが真相ではないという根拠はなんであろうか。人は自分では見ることもができず、解釈のできないものはあまりにも多い。このような思想で一方的に排斥し、他人が言う真相を嘲笑うようなことも生じる。実証してみるべきではなかろうか。あえて直視する勇気がなければ、それは理性や知性ではなく、科学に対するあるべき態度でもなかろう。少なくとも造詣の深い科学者はこのような態度をとらない。アインシュタインは神の存在を否定せず、マックスウェルは敬虔な宗教信者であった。共産主義思想も人間の思想である以上限界があるのではないだろうか。神佛の認識と比べ限界がないと言えるだろうか。佛法に対する認識を否定する資格があるのだろうか。共産党の発言であれば正しいのであろうか。共産党の言うところの“科学”は政治的スローガンに過ぎず、己の認識以外の観念をすべて“偽科学”、“迷信”という。根本的な目的は科学ではなく政治にある。人間は何かを考えるとき、私心と欲望が伴うものであり、理知的に事物を判断することは難題である。それ故、人間の発展は歪んでしまうのではなかろうか。それは思想や観念が正しくなく、あまりにも視野が狭いが故である。人々には信仰があるべきで、正しい信仰があるからこそ、正しい思想、観念が働くものである。実は人々は従来信仰があり、人々の宗教、現代科学の見方は、両方とも信仰と言えるのではなかろうか。現代科学は肉眼で見え、人の思想が認識したものだけを信じるが、それ自体が一種の限界ではないだろうか。人の肉眼では見えず、人の思想が認識してない事物は多いが、そのすべてが存在しないと言えるだろうか。人の肉眼、人の思想の認識範囲には限界がないのであろうか。

法輪佛法は修煉であり、佛法の根本として、人間の認識を超え、実証科学的な見方では計ることもできず、理解すらできないのである。本当に心を静め理知的に、法輪大法の角度から“真・善・忍”に基づいて宇宙を認識してみると、眼前に新たなる世界が開けることであろう。実証科学は未知の領域への認識を阻むものである。法輪大法は、人類に新たな思惟方法、新たな認識をもたらし、新しい科学路線を切り開かせることができる。《転法輪》を静かなる心で、何度となく通読することにより、人類が永遠に解明できない謎が解けると共に、無限の世界を見出すことができる。