日本明慧

大事と小事

現在多くの学習者は法を正す時の修煉において、自分がおこなう事や遭遇する問題を、人為的に大事と小事に選別し、大事はより重要で小事は無視してよいと信じている。この傾向は一部の学習者が個人修煉と法を正すためにおこなう事との関係を、うまくバランスをとって扱っていないことを表わす。

事実そのように大小に選別するのは、人間的観念に基づく。我々が修煉において遭遇する事はどれも偶然ではない。我々はどれがより重要でどれがそうでないか、人間的標準をもって判断すべきでない。学習者が志を懐くのは間違っていない。しかし師父は、「着実に修煉すべきです」(圓満成就に向かって)と常に訓戒する。師は更に我々に思い出させようとする。日常の些細な事における衝突が起きた時、それが家族であろうと、学習者仲間であろうと、自分の内面を見ることができず、自分を学習者として扱うことができないなら、他に何がもっと重要だと言えるだろうか。己れの執着や魔性を放っておくなら、今にも達しようとする美しい世界が崩壊しそうである。何がこれ以上に大きな問題と言えるだろうか。これらの執着や観念に影響されて、邪悪に抜け穴を利用させてしまい、真相を伝え人々を救済する機会を失ってしまう。すると貴重な生命やあなたが代表する衆生が、救済される機会を失う。何がこれ以上に大きな問題だと言えるだろうか。

一部の学習者は、大きな事をすることによってのみ、法を正す時の修煉に参与したことになり、個人の修煉や法の勉強や向上は第二である、という見方をしている。事実師父は、個人修煉と法を正す時の修煉との関係を、どのようにうまく保つかについて、長い間はっきりと言い続けてきた。

「皆さん御存知でしょうか? 修煉者でさえあれば、どんな環境、どんな情況の下であっても、遭遇した厄介なことや不愉快なこと、ひいては大法の仕事の為であっても、わたしはそれらを利用して皆さんの執着心を除去し、皆さんの魔性を暴露させることによって、それを除去します。皆さんの向上こそこの上なく重要だからです。」(「再認識」精進要旨)

「法を勉強せずに大法のことをしてはならず、それでは常人が大法の仕事をしていることになってしまい、必ず大法弟子が大法の仕事をおこなうのでなければならないので、皆さんに対してこのように要求しています。常人が大法の仕事を手伝ってくれれば、それはもちろん良ことですが、わたしがここで指しているのは大法弟子のことで、必ず大法弟子が大法の仕事をするのでなければなりません。なぜならば、皆さんの圓満成就が主要なことであり、現在の皆さんにとっては皆さんの圓満成就こそが何より重要なことだからです。」(ワシントンDC国際交流会での説法)

個人修煉と法を正す時の修煉は、巨人の二本の足のようであり、もしも一本が偏ったことをすると、修煉に障碍をもたらし、大法にとって損失となる。「志を懐きながら、細事に気を配る。」(「聖者」精進要旨)  視野をもっと広げると同時に、我々は遭遇する全てのことを修煉とみなし、瞬間的に頭かすめる一念でさえ法にてらし、自分をしっかり圓満に向けて向上させなければならない。

以上は私個人の理解である。不適当なことがあれば、ご指摘戴きたい。

2002年3月13日