日本明慧

時間への執着を放棄する


2002年3月6日 文/米国の学習者

【明慧ネット】正法の過程は絶えず進み、真相を伝えながら、執着の中で執着を破り、大法の異なる次元における要求に従い、それを取り除いて行きます。

邪悪による気が狂ったような2年あまりの迫害の下、一部の修煉者はこの世における残忍非道な苦難を経験したため、この苦痛が早く終わることを待ち望んでいるようです。しかし、法の上からみると、それは紛れもなく執着でしょうし、見方を変えれば求めることの一種となり、意念を不純にするものであり、法に対する認識の問題ではないかと思います。 個人として悟ったことですが、大法の弘伝は遙か昔から按配されたことでしょうし、異なる時期に法を得る修煉者が有ると思います。皆宇宙の中で誕生した生命であり、大法とは異なる時間・場所において縁を結んだことと思います。また間接的に、親戚や友人を通じて結んだ縁も有り、当然のことながら縁の深さは皆異なることでしょう。すべての生命は出所、特徴、所持する物質、輪廻した時間、環境、業の大小なども異なるものでしょうし、今日の学習者も、修煉の環境、出会った人、縁の良し悪しも異なると思います。環境がどんなに困難であろうと、出会うこと自体すべて偶然ではないことでしょう。李 洪志先生は、異なる背景を持った学習者が、すべて法の船に乗れるよう尽力され、学習者の入り混じった複雑な背景と、異なる次元で造った借りを返すために、どれほど苦心され、苦い薬をお飲みになられたことかと思うと想像もつきません。大法は鏡のようであり、照らしてみると自らの境遇が分かり、先生の慈悲を一層深く認識できることと思います。

すべての執着を放棄する…先生が常に問われた戒めと思います。自分の中に一層の法の存在を発見した時、大法の威力を感じることができることでしょう。どんな環境にあるにも関わらず、先生が《精進要旨》“妨害を排除する”の中でおっしゃった“法はすべての執着、すべての邪悪、すべての虚言を破ることができ、法は正念を固めることができる”をしっかりと覚えなければならないと思います。正法がどれだけ長く続いたとしても、先生の慈悲であり、より多くの人を済度するためではないでしょうか。 

先生が北宋の《梅の花の詩》を解釈されてから、程度の差はあれ、多くの学習者に“春”というものへの思い入れを感ぜざるを得ませんでした。日常の会話の中にもしばしば出現し、一種の期待する心もあるように感じられ、さらに執着を強めているようにも見受けられました。真相を伝える時にも、純粋さが弱まるという影響も出て、もしかすると縁ある人が機会を失った可能性もあるかも知れません。時間には執着しませんと言った学習者でも、他の学員が時間について言及すると、思わず近寄り聞き取ろうとするのを見かけました。先生の新しい経文を読む際にも、“時間”という文字を追いかけ、これを共通の話題とする学習者もいました。有意にも、あるいは無意にも執着していると言うことではないかと思います。当然ですが、本当に法の上で認識し、時間に執着しない修煉者の人は別です。

時間への執着について、わたし個人としては以下のように認識しています。この古い勢力は、大法の弟子を試すという目的を達成するために、有史以前から古今東西のすべての手段を用い打ちのめしに来て、それによって執着を放棄させるという初期の目的を達成しようとしました。また世の中の邪悪なる人を利用して、虚言を捏造し弟子を試そうとしました。何かに執着すると、その執着を除去するための試練を用意する様です。先生は経文をお書きになって、この点について伝えてくださいました。 

また、思惟と言うものは、他の空間では物質として存在し、エネルギーが大きければ、存在する時間がより長くなることと思います。執着により生じた物質は、宇宙の特性に背くので、それは重いものでしょう。次元が高ければ高いほど、執着した物質の覆う面積は大きくなり、以下の次元の生命と環境への影響も、大きくなるのではないかと思います。もし、その執着の一つを岸辺に繋いだ一本のロープとしたならば、すべての大法の弟子がいっしょに繋いだロープはどんなものになるのでしょうか。今日たとえ先生が正法を終えたとしても、執着のため生じた物質は回帰することへ影響しないのでしょうか。それでは自らを拘束したことになるのではないかと思います。古い勢力もこの執着と大法の弟子に対して、全面的な試練を与えるのではないでしょうか。そうなれば先生の正法を終えることを遅らせてしまうのではないかと思います。 ですから、正法を早く成就することの助けとなるように、すべての執着を捨てていきたいと思います。無私無我となり、何も考えず、何かしても何も求めず、心を空にし、頭を静にしたいと思います。このような静であれば、大法の威力を含んでいることでしょう。これは大法の中で修煉して、はじめて体得し得るものではないかと思います。 

以上わたし個人の一層次における認識を述べさせて頂きました。皆様からのご意見及びご指摘を心からお待ちしております。