日本明慧

学習者間の忍


過去私は、「真善忍」の中「忍」に対する理解がとても浅かった。常人の間で試練に耐えるのは、全然問題無かった。しかし学習者間、特に大法の仕事をしている時、もしも異なった理解のしかたがあると私は相手が間違っていると思い、彼の考えを変えようとして論争が長々と続いた。もしも相手が私の理解のしかたを受け入れないと、私の心は不満でその気持を捨てられなかった。相手の執着を責める時、私は自分の執着が奥深くに隠れているのを知っていたが、それが何なのかはっきり認識できなかった。

最近、韓信が屈辱に耐えて人の股下くぐったという師父の話を学んだ時、私は突然悟った。相手が学習者かどうかはどうでもよい、相手が正しいかどうかもどうでもよい、私達は自己修煉において忍が必要なのだ。私達は他の学習者達の意見を、大法への責任から、そして学習者仲間への思いやりから、考慮することが必要である。何故か?

1 私達は皆迷いの中にある。だから私達が最良の案だと思うことも、表面的には良く見えても、実際にはそうでないかもしれない。

2 師父によって手配されたことの全ては、法を正す為であると同時に、学習者の修煉の為でもある。師父は弟子達の忍を向上させる為に、小事を手配する。もしも私達が耐えることができ、心性を高めるなら、これはただの小事よりももっと重要なことになる。

3 私達は皆大法の一粒子である。だから大法全体から物事を見る必要があり、全体的情況を考える必要がある。自分の注意を、他人の欠点を見つけることに向けるべきでない。足りないところがあれば、自分が率先してそれを埋めるべきである。各弟子にはそれぞれ異なった修煉の道があるが、洪法のような大事になると、心を一つにして団結する必要がある。大法弟子は一つになり、各自の任務を果たすと同時に、全局に心を配る必要がある。

以て、修煉者にとって忍耐は必須である。

これは私の粗末な意見である。正しくないことはどうか御指摘願いたい。

2002年3月18日