日本明慧

血に染まった衣服の物語り


【明慧ネット】


これは普通の一枚の衣服ではない。これは一枚の血に染まった衣服だ。一枚の大法弟子の5項目条件と大法弟子の名前がサインされている衣服だ。これは私が初めて自分を本物の大法弟子だと認めた証拠品だ。

物語りは2000年10月に発生した。当時、当事者だった私は、今日感慨の心情を抱いて以下のように記録する。私は2000年9月30日夜、住宅地区で真相資料を貼るとき、 捕まってしまった。法をあまり深く勉強していなかったため、家族が心配になって、実家の人の状況を話した。そして、その深夜と二日目一日中、情感と理性の戦いの中、精力がなくなった。私は家族と警察達に私の自身の経歴で洪法し、そして同修の名前と電話番号を言うのを拒否し、監獄に監禁された。

私の兄は警察と家族の前でこう言った。"もう結果は決まった、君は軽ければ7〜15日、重ければ6〜15年拘留される。"今になってもおかしいと思う。どうして警 察ではなくて、兄が私にこれらを告げたのか。父親もこう言った。"言うべきもの はもう全部言った、どう選択するかはきみ次第だ。君は物心がつく良い子供ということ は知っている。君はどうすべきか知っている。"

私はうなづきながら、彼らにみな家に帰るよう、こう言った。"安心して、何日か経ったら家に帰る。一旦、貴方達が落ち着き、何も考えなければ、私には何の問題も 無い。"派出所で供述を書くとき、最後に警察は私にこう聞いた。"今後、又煉功する?" と。私は"煉功しなければ、病気になると、その時、誰に頼れば良いの?"と言った。彼はこう言った"私が責任を負うから、私のところに来て。"私はこれで難関を突破したと思った、しかし、そうではなかった。ある若い警察が 退 社の時間が過ぎても帰らず、私のことを心配した、でも確かに私を驚かせた。彼は最初のうちは私が12歳の女の子と同じていどのIQを持っていると感じていた。でも、後になって、心から敬服し始めた。彼は私の主人に衣服とご飯とおかずを買ってくるよう言いつけ た。そして、食欲が無いと言った私に食べるように強制しながら、こう言った: "貴方はもう一日、なにも食べていないよ。この中のご飯は始めの三日は食べられないから、早く食べて。"等など。彼と他の何人かの警察は私にこう言った"誰か、もしあなたを殴るの だったら、管教に言ってください。"これが私が始めて警察を管教と呼ぶのを聞いた時だった。

夜8時過ぎると、朝陽分局から人が来て、私を朝陽区三間房の拘留所に護送した。衛兵が守備する、鉄条網と高い壁に囲まれた中は、全てが陰険だった。私達は、まず、 健康診断を受けた。私は上海に出張し、五つ星ホテルに泊まって、洋服を着るとき、 ネックレスを外すのを忘れていたので、警察に外すように命令され、テーブルの上に置いたが、彼らは私に返えしてくれなかった。私は他に、ダイヤモンドの指輪とカメラなど大法弟子の貴重物品が置いてあるのを見た。これらは私に世界第二次戦争の 時、ナチス強制収容所でのことを思い出させた。 私は長い回廊を歩いてオフィスに来た。その時、一人の警察が一人の若い女大法弟子を大声で訓戒し叱責するのを聞いた。女の子は名前を言わなかった。何に殴られて
たか悲惨に叫んでいた。

私はほんとに恥ずかしく思い、本当に自分を反省すべきであった。ただし、私はそうしなかった。三十七、三十八時間眠れなかった情況で私はこの全てが早く終ることだけ願った。私が早く落ち着いて、眠れることだけ願った。邪悪はとにか私達が一番怠ける時に私達のすきに乗ずる。公文書を管理する警察は最後にこう聞いた。"今後また修煉する?"私は不思議そうに彼を見ながら言った。"私に聞くなら、もちろん修煉する!"

警察は笑った。彼はこう言った。"私は貴方が心でどう思うかを聞いてない、聞きた いのは、この書類にどう書くかだけだ。"彼は私に暗示した、私は法輪大法が良い こ とを知っている、彼も法輪大法が良いことを知っている、私達はただのゲーム遊びだと。この書類はただ上に見せるために書くだけたと。"そうならこう書いて......"私の目前にはお父さんの顔が揺れ動いた。"今後しな いと書いて......"私の声は小さくなった。

警察は相変わらず笑っていた。全てがとても平静であった 警察は私にサインするよう要求した。

私は百回も思い出している、当時、私はサインを拒否できる状況だった、彼に"申し訳無いけれど、書き直してください"というべきだった。ただし、事実上、私はそう しなかった。 私はサインを拒否しなかった、彼は書きなおすように言ってなかった。今日、当時のことを書くとき、私は依然として涙を流している。私はこの事実の後ろに、どれほ どの執着心が隠れているか発見できなかった。

私はただ、考えずにサインをしたことで心が重苦しかった。これはどうして私が血書を書いたかのわけだ。

これは私の恥辱であるし、私の一生の間、人として犯した最大の失敗だ!

続いた何日の修煉生活で、私はもともと自分が何も修してないことにびっくりし た。 私はただ、何回か本を読んで、五種類の動作ができるだけで、法も暗記できない し、 苦労もしてないし、でも独りよがりであって、通常同修との往来が嫌いだった。ほ か の人はみな自分より良く修煉できてないと思った、自分が師父の言葉を深く理解して いると思った。

私が管教に洪法すべき時、私は自分が他の学員のように、師父のもとの言葉で話せな いことに気づいた。私は十分に我慢することなく、怒って、獄吏に"当たり前だ" な どのことも言った。何回も法を良く暗記していなかったので放棄した。同時、私は 法 の偉大さ、不思議、師父の慈悲、寛容を見た。私が絶食絶水で抗議しても無事だっ たし、殴られても痛くなかった。私は自分が迅速に向上し、大法に同化されるのを感 じ た。師父は私に自分の執着心と他の弟子の偉大さを見せてくれた。私に何がほんとうの修煉かを教えてくれた。私は師父がおっしゃった一つ一つの言葉がすべて真実の法ということを分かった、どんなに大切なことだと!しかし、それまでの私はどんなに 多くの貴重な時間をむだにして、精力を必要ではないことに費やしたか。この瞬間 か ら、私は自分を本物の煉功者と認めた。

暇の時は、いつも一回、また一回考える、どうやってこの許せない過失を補えるか。私は一回、また一回、師父の経文"真修"を黙って暗記し、涙を流した。私は自分 の 行動で自分の恥辱をすすがねばならないと決心した。又、私はここを出た
ら、必ず 良 く法を学び、本を写し、《洪吟》を暗記し、洪法し、真相を説明し、良く修煉し、自分の執着を取り去ろうと願をかけた。

10月7日の午前、一人の弟子が一枚の白いシャツに血書を書くことを提議したとき、私はすぐ賛同した。私達は指を刺し、血をミネラルワーターボトルに入れ、その次、 ボールぺんで血をつけて書いた。血は多くなると凝固するので、一回少しだけ搾り出 した。私達は先ず、5項目の条件を書いて、サインをした。

『5項目条件』
一、私達の李洪志師父の潔白を返せ
二、法輪功の潔白を返せ
三、無条件で拘禁されている全ての大法弟子を釈放しろ
四、大法の本を公開発行しろ
五、悪人の首領江沢民、罹幹、李嵐清、曾慶紅などを厳罰に処しろ

全体大法弟子

2000年十月七日

始めにサインしたのは私だった。私は自分の名前をきれいにシャツの左胸前——心臓 の位置に書く時、私は内心から、自分を煉功者と思い、呼びかけをはっきり感じた。 私達はサインした、血に染まったシャツを警察に渡したら、どんな結果になるかを知っていた。ただし、法を実証するためなら、私達は牢獄に入ることと犠牲も恐れなかった。

私は当日午後、釈放された。この血に染まったシャツには16日後、また20名以上の大法弟子のサインが入り、最初に血書を唱道した同修が家にもちかえり、写真をとって記 念として残した。彼女はこんなに多くの大法弟子が又牢獄に入るのを考えて、家に 持 ち帰るよう決めた。彼女が拘留所を出るとき、彼女は厳しい言辞で管教に5項目条件を提出した、一人の大法弟子としてやるべき事をした。

当時、牢獄には大法弟子と称するスパイが入ったため、私達はただ自覚的に体得し、悟った理を交流した。そして私はサインした後、すぐ釈放されたので、他のサインした弟子の状況は分かる方法が無い。彼女達は現在どうなっているか?今、無事か?私は真心で彼女達に挨拶をし、彼女達と私が一緒だったその貴重な時刻を思いだし、私達の宣誓を忘れず、そして彼女達が既に"厳正声明"を発表していることを希望し、大法にもたらした損失を倍に補い、 正法の過程にぴったりついて行ってほしい。