日本明慧

江沢民は既に自分ための墓を用意していた


2002年4月22日 文/大陸大法弟子 淨心

【明慧网】“善悪には必ず報いがある”とは天理である。このことは古くから中国で言い伝えられている。“世界のどの国にも宗教を信仰する人がいて、中国には何千年の間ずっと佛教や道教の信仰があり、善には善の報いがあり、悪には悪の報いがあると信じられています。もちろん信じない人もいます。”(《転法輪》190ページ)

私はこのことにまつわるある出来事を思い出した。私がまだ子供の頃、それは1947年秋のことであった。私の故郷は東北地方の農村で、「血が出る闘争」が時折発生し、とても残酷な状況であった。壊劉というならず者が、この農村で大暴れしていたのである。闘争会議が開かれるたびに、壊劉はいつも他人を酷く殴る。馬車に乗るときの、しのぎの柄の部分で殴るのである。多くの人が壊劉に殴られて死んでしまった。そのうちに壊劉は民兵の連長に選ばれた。翌年の春、壊劉は数人の民兵を引き連れて巡査に向かった。荒野に着くと、突然大きなつむじ風が吹き、石や砂が壊劉たちにむかって飛んできた。倒れた壊劉は意識を取り戻すと、他の民兵はすでにいなかった。壊劉は家に帰ってから苦しくなった。壊劉は土のオンドルに三日間ももがき苦しんで死んでしまった。村民たちは「壊劉は多くの人を殺したせいでたくさんの徳を失った。悪鬼に掴まれたのだ・・・・・・」といった。

現在、江沢民集団はきわめて凶悪残忍な手段で法輪功修煉者を迫害している。犯罪数があまりにも多すぎてすべてを把握することができないほどだ。ハルピン万家労働教養所での数々の不祥事、武漢での封家の母子殺害、沈陽馬三家労働教養所での女子大法弟子への強姦、河北での女子大法弟子の水牢による殺害などなど・・・・・・。江沢民集団の一人一人の手には人民を痛めつけたときの血がついている。必ずや報いに遭う! 天理から決して逃れることは出来ない! 「人間は信じないが全てやって来る」(《預》)。ネット上に列挙された警察による犯罪が応報に遭った事例は数え切れない! はたして法輪功修煉者はどんな犯罪があるというのであろうか? 身心の健康、道徳の回復、善良な人間を目指すことが犯罪であるとでも言うのか? 中国国内での、主席をはじめとする地方官僚にまで及ぶ汚職、百姓を動物のように扱う悪者たち、法輪功修煉者を弾圧し、殺害する元凶たちがかえって英雄になるのであろうか? これは大変おかしいのではないのか? このことが江沢民が毎日口にしている“人権”というのか? いったいどこに“自由民主”があるのか? そんなことをやっているから、大量のカラスが沈陽市に飛んでいって、横断歩道が糞まみれにもなるのだ。

師父は「修煉は政治ではない」と説いている。特に、私のような高齢者は鎮反、三五反、反右、四清及び文化大革命運動を経験した。一生が皆このように一辺に倒れる鉄の籠にもがいて、生きるために忙しくして、子供のために苦労して、すでに心はずたずたになった。「実のところ、各種の政治運動を経験してきた人々は本当は高い分析能力をもっているのである。過去において、彼らは信仰を持ったこともあれば、虚無感を味わったこともあり、盲目的に崇拝したこともあれば、経験と教訓も積み重ねており、とりわけ文革の中で忘れ難い心の痛手を受けているので、このような人々に何かを簡単に信じ込ませようとするのは不可能ではなかろうか? 真理なのかそれとも政治をやっている人間が仕立てたいわゆる迷信なのか、今日の人々はなによりも、それを判別することができるのである。」(《迷信を再論する》)

現代社会において、人々は簡単に何かを信じることが出来るのか? 何故、そんなに多くの人々が法輪功を修煉するのか? 一言でいえば、私たちはみんな大法から受益している。大法は真善忍の法理を説き、新生と希望を、明るい未来を与えてくださった。中国には“水を飲むとき、井戸を掘った人を忘れてはならない”という諺がある。わたしたちは師父の慈悲を忘れることが出来るのか? 決して忘れてはならない! ある一人の同修がたった一言“法輪大法好”のために、2ヶ月間歩き続け、北京天安門にたどり着いた。この間に9足もの靴が履き壊れた。彼は全世界億万の大法修煉者と善良な正義な人々の思いを背負って叫んだ! その場に警備していた警察をも震撼させ、感動させた。結局彼は捕られなかった。

私はこの出来事を親戚や友達に話すと、親戚や友人は涙を流した。人には良心(佛性)があるからである。はたして江沢民の良心はどこに行ってしまったのであろうか? 国民を愛さない元首が許されるのであろうか? 国民の生活水準の向上と身心健康を望まない国家首脳が他にもいるのであろうか? 今日、大陸の江沢民だけが地位を乱用して億万の人民を暴力で専制している。強制しても人の心を変えることはできないのに。江沢民集団が様々な手口をもってしても無駄であり、結局のところ江沢民が自分の墓を掘っているに過ぎないのである。