日本明慧

人に神を操作することは出来ない
--- 私の留置場での正法過程 ---


【明慧ネット】ある日、私は近所へ出かけていたところを私服警察に見つかってしまいました。その時私の常人の心が働き、どうしたらよいか分からなくなり、正念を発することを忘れました。私は無意識の中でこのような迫害を黙認していました。2人の私服警官は隣の家に突入して、乱暴に私の腕をねじって背中に付けて手錠を嵌めてから、私の携帯電話と電話手帳、電話カードなどを奪って、私を外に連れ出しました。その時私は冷静に考えました。「私は良い人間だ、捕まる理由はない。彼らが私を捕まえることは人に顔を合わせることが出来ないほど悪いことだ」と。私は大声で「法輪大法は善い!警察が人を捕まえている!」 と叫びました。彼らは慌てて服で私の頭を被せました。私が歩かないと、彼ら数人は私を持ち上げようとしていました。私は、「法輪大法は善い!警察が人を捕まえている!」と大声で叫び続けたので、多くの人の注目を集めました。

私服警官らは私を警察所まで強制連行して、私に自白させようとしていました。私は、「あなたたちは間もなく淘汰される邪悪に利用されている人間なので、私を尋問する資格はありません。私が一番正しいのです。正しくないものは正されるべきです。あなたたちに神を操作することなど出来ません!」と思いました。私服警官らはメモの準備をしていました。私は、「悪者を尋問するときは記録が必要ですが、私は良い人間です。私がしていることは最も神聖な事なので、あなたたちに応答する必要はありません。」と言い、「なぜ私を捕まえたのですか?私は何を間違った事をしていましたか?」続けて質問すると、警官らは「質問したことのみ答えてください。さもなければ協力しなかった事となってしまいます。」と言いました。最終的に私は留置場に送り込まれました。警官らが私を持ち上げた時に「法輪大法は素晴らしい!」と叫びました。私は叫びながら「あなたたちの力では私を車に押し込めることは出来ない。」と思いました。警官らはやっとのことで私を車内に押し込めました。私は留置場に到着するまでずっと「法輪大法は素晴らしい!」と叫び続けました。

留置場に着いてからは、絶食・絶水して迫害に抗議しました。私はこう思いました。「私は神だ、ここでは私を止めることが出来ない。私の修煉の道は先生が按配してくれた。人間の言うことは当てにならない。私は衆生を済度する使命を果たすために来ているため、ここに閉じ込められるはずがない」。私は、己に対する邪悪の勢力の按配を完全否定し、生死を放下し邪悪には全く合わせようともしませんでした。もし私が邪悪の按配に従ってしまえば、それは安逸を貪ることと同じであり、大勢の衆生に責任を負わないことになり、利己的なものになると思いました。私は毎日正念を発したり、先生の経文を暗記したりして随分落着き、体調も良くなり、苦痛も感じられませんでした。私がここに閉じ込められる理由はないと確信しました。いつ釈放されるのかについても何も考えませんでした。洗脳教育や、刑罰についても全く考えもしませんでした。私は不法な教養と刑罰が受けるのが怖くなかったのです。たとえどこに連れて行かれたとしても、私は断固として迫害に抵抗する事ができます。なぜなら、人は神を操作することができないからだと思います。私は「なにも求めない」、「静かだが思いはしない」ようにしました。「修は己にあり、功は師にあり」なのです。それから留置場は邪悪を排除する絶好の場所なので、近い距離での正念を発するには威力が大きいと思っていました。

三日目、女警官がお粥を持って来て私に食べさせようとしましたが、一切口にしませんでした。女警官は私に食物を入れ込むと脅迫しましたが、私は逆に女警官にこう警告しました。「もし食物を注入する時危険があったら、その責任はあなたに負ってもらいましょう」と。警察官らは私に食物を注入する勇気が有りませんでした。絶食・絶水して6日目、所長は5人の警察と2人の市病院の医者と看護婦を連れてきました。所長は「ここでは死人を怖がらないのか。」と怒り出しました。所長は犯罪者に私を入り口まで運ばせ、鼻から管を差し込んで食物を無理やり流し込ませようとしました。7、8人の犯罪者が私を押さえ付けました。私は看護婦に、「もし管を差し込むことにより危険が起きた場合は、あなたに責任をとってもらいましょう」と警告しました。私は「心が動じなければ、万人の心すら制御することが出来る」と心から思いました。私は先生の話を思い出しました。「誰かがあなたを動かすことが出来るなら、それは私を動かすことになり、はっきり言えばこの宇宙を動かすことになります」と。「先生、力を貸してください」と正法口訣を黙念しました。看護婦は管を鼻に挿し込み始めました。私は、「私は神で、あなたたちは人間だから私には効かないはずだ」と、自分の功能を用いて管を差し込むことが出来ないようにしました。看護婦が管を鼻から差し込むと管は口から出て来たのです。管を抜いて再び差し込んでもまた口から出て来るのです。私は管を抜かれないように管を噛み続けました。所長は電気棒で私を殴ろうとしていると看護婦は止めました。看護婦は「口を開けなさい、もう挿し込まないから。」と言いながら結局再度挿し込もうとしました。でもやはり失敗の繰り返しでした。私は黙念を続けました。「私は神だ、誰も私を動かすことが出来ない、あなたたちが私を迫害するのは許されざることである」と。看護婦が管を挿し込む度に、私は大声で叫んで彼らが私を迫害している状況を周りの皆に知らせました。出血も多かったのですが、私はちっとも痛みを感じませんでした。結局彼らは諦めて去って行きました。一時間後彼らはまた戻って来ました。あの看護婦は開口機を使って口から管を胃まで差し込んでしまいました。それから注射器でミルクを注入しました。彼らは随分喜んでいました。私は落着いて一念を発しました。「私は神です。先生、力を貸してください」と。私は功能を用いて注入された物を全部吐き出しました。結局、強引に注入された物がすぐ胃の中から噴き出されました。ある警察が速く管を抜きなさい、と管を抜いたら残りが又口から噴き出てきました。その時彼らの顔色はすっかり変わりました。私に食べさせようとあらゆる手段を試したにもかかわらず、完全に失敗したので諦めるしかなかったようでした。その後は二度と注入されることはありませんでした。

絶食、絶水を始めてから8日目、所の幹部ら4、5人が警察を連れて来て私を鉄の椅子に固定し、強制的に点滴を行おうとしました。彼らが私を持ち上げると、私はすぐ叫んで彼らの強制行為が多くの人々に知れるようにしました。ある警察が、「やむをえない、ここでやろう。」と提案しました。私は心から黙念しました。「心が動じなければ、万人の心を制御することができる」と。同時に正念を発して邪悪を廃除しました。私は横になって動かず、目を閉じて彼らに自由に刺させるようにしました。心の中では 「うまく刺さらないように」と、一念を発しました。結局針を刺しても膨らんでしまい、刺せば刺すほど膨らんできました。数十回刺してからようやく成功したようでした。しばらくして犯罪者らに鉄椅子を運ばせる時に、私は誰も気付いていない隙間を見て注射針を抜いて置きました。その後彼らは数回挑戦しましたが、とうとううまく行かなかったのです。9日目、彼らはまた点滴に来ました。5、6針を刺し、液体が3分の1くらい減ったとき、彼らに気付かれないうちに、また針を少し抜いて膨らませました。留置場の医者は、「私にはもうどうしようもない。全身を探したが血管が見付からない。ようやく一箇所見付かったのにまた膨らんできた。調査部門がまだ連れて行かないため、私達は困っている。」と、私は彼の独り言を耳にしましたが、何の反応も見せませんでした。ただ、すべては先生がコントロールしてくれていると実感しました。

10日目の金曜日に彼らはまた点滴に来ました。その日は一発で刺さり、最後まで刺さりました。しかし私は何も感じられなかったし、自分の正念の威力を疑うこともなく、「点滴が終わったら私を釈放するかどうか」も一切考えもしませんでした。夜になって寝ようとすると、同じ部屋の同修らは、「点滴が最後まで成功したのは、あなたと私たちが交流できるようにするためで、もし点滴ができずにあなたをそのまま釈放してしまえば、このような交流の機会はなかったでしょう。」と言ってくれました。

土曜日と日曜日は私を監視する警官がいませんでした。私は同修達と交流し、「自分を神と見なし、生死を放下し、邪悪には全く従わない。いつも法に従って、先生を信じていれば、邪悪な勢力の計画を打ち壊すことができる。」と同修たちを励ましました。日曜日(絶食、絶水12日目)の午後には私は動くことも話すことも出来ませんでした。その日の夜、私は市病院に運ばれ緊急治療を受けました。所長は「自らやったことだから、死んで当然だ」と怒り出しました。私は病院に入ってから目を開けることすらできず、重症でしたが、知覚と意識ははっきりしていました。私はずっと法を思い出し正念を発し続けていました。痛みと苦しみは全然感じられませんでした。
 13日目の午後、彼らは釈放証明を作成し、無条件に私は釈放されました。私は法を正す時期の修煉者としての使命を果たすことが出来ました。

今回の出来事で主に2つの感想があります。

1. 常に法に基づいて問題を見るべきで、思想の中の妨害と外部からの邪魔(警官、犯罪者の妨害と同修たちの間で起こる認識の違いによる影響を含む)を除いて、生死を放下し、常に自分を神とみなしている時は、人間が神に対する迫害は効かない。自分の使命をしっかりと認識して、根気よく続けることである。

2. いかなる環境でも悪魔に怯えず、邪悪に合わせないことである。怯えることは利己的で、法を堅く信じていないことである。怯えるということは個人の利益を守ろうとする心理が陰に潜み、大法を第一に位置付けしていないことであり、安逸を貪るように成りがちである。