日本明慧

生命に対する寛容と邪悪に対する容認

2002年5月29日
「明慧ネット」 私は、同修たち間のお互いの態度問題について検討する、いくつかの文章を読みました。それらの文章の中に、ある人はお互いに厳しくした方がいいと言う意見を持ち、ある人はお互いに寛容の方がいいと主張し、またある人は、相手のことを言う前にやはり自分のことをまず反省し、そのあとまた相手のよくないところを指摘すればいいと言っています。
しかし、ここに一つの、おろそかにされやすい問題があります。それは、一人の人と、その人の一時的な行いを、ごちゃ混ぜに論ずる傾向があるというところです。これは適切ではないと私は思います。一時的な行いはその人の全部を代表することができません。生命の角度から見れば、一つ生命の態度を対処することと、一人の人の一時的な行いに対処することを、厳格に区別すべきです。その両者は全く違うからです。
生命に対しては、大法弟子の持つべき態度は永遠に寛容と慈悲であります。しかし、一つの生命の一時的な錯念、誤った行為、執着心、それに全ての正しくない考えに対して、寛容にすれば、それは容認となります。
大法弟子の間にある寛容の態度というのは生命の間にある寛容で、慈悲です。《大円満法》の最後に付録された「法輪大法インストラクターへの標準」の第三条は、「煉功点では厳しく自己を律して、他人に対して寛大でなければならず、心性を守り、お互いに助け合って友好でなければなりません。」と書かれています。
しかしながら、同修の間にトラブルが生じた場合、あるいは、同修が持つべきではない執着や考え、または良くない心、良くない行為があると見えたとき、なぜ指し示してあげないでしょうか。指し示してあげたのは、同修の執着であり、その執着を暴かせたので、同修を暴露したわけではありません。それが見えたということ自体は偶然ではないのです。もし、指し示してあげないと、同修の執着心に対する容認を誤って同修に対する寛容とし、さらに、情のために「和気」を破るのを恐れるとか、私利のために「自己」を傷つけるのではないかと心配したりするのは、それらは逆に邪悪に邪魔されやすく、邪悪が私たちの「容認」という隙間に、入って来やすくなります。
もちろん、相手の同修に指摘してあげる時の心境とその出発点が、正しいものでなければなりません。自分のレベルが高いとか、自分こそ正しいと表すのではなく、相手のために、正法のために、同修の問題点を指摘してあげるのです。ボストンの法会で、師父は「洪大の慈悲、善の理解」を用いるべきだとおっしゃいました。
同修の執着を指し示してあげる時に、真の善意を抱かなければなりません。逆に、責めたり、叱ったりして、あるいは怨んだり、不平満々を言ったりして、更に、常人のように裏で悪口を言うのはいけません。そうすれば、この一刻はきっと邪悪に邪魔されるので、自分のまだ修めて取り除かれていない魔性を放任してはいけません。そのため、確かに相手のことを言う前に、まず自分のことを反省しなければなりません。(トラブルに遭う時、まず内に向かって捜すということです。)
もちろん、適切に同修の不足を指し示せれば、一番いいのです。私は、同修の不足を指し示す方法についての、あるひとつの文章を覚えています。例えば、同修がある面で私利の心がある場合、しかしこれは同修の全てがそれだということではないのです。その時、私たちは感情的になってその同修の全てを否定するのではなくて、相手の受け入れやすい言い方や表現で話したほうがいいのです。トラブルの中に、大法弟子の修めた一面は、私たちには見えないのです。見えるのは、相手が一時的な観念と執着によって行った、よくないところだけです。相手に善で対処する心は、形や内容という面から自然に現れてくるから、人々にはっきりと見えるのです。
今、常人に対する態度も同様です。一人の常人に対して、彼に真相を伝えている時、もし、彼の大法に対するよくない考え、さらに大法に対して犯した数々の罪だけをみれば、彼に真相を伝えつづけられないでしょう。実際に、私たちが真相を伝えている時に、向かっているのは一つの命で、一人の常人ではありません。大法弟子が向かっているのは広大の衆生で、済度しているのは生命です。これは大法が衆生に対する慈悲済度です。まさに、師尊がおっしゃったように、「かれがどこからきたであろうとも、かれがどんな縁、どれほど高い次元であろうとも、一つの生命として惜しむべきではないでしょうか。」《ワシントンDC国際法会での説法》法を学んできたので、私たちは、既に、今日の人は実質上皆ほとんど「王」で、しかも、はかりきれない巨大な生命群を代表する「王」であることを知りました。だからこそ、私たちが真相を伝えて済度しているのは生命です。
私たちはひとつの生命に対して、寛容で、慈悲でなければならないのです。しかし、すべての正しくない考えや行為、法を破壊する邪悪に対しては容認するのではなく、それらを抑えて取り除かなければなりません。さらに、あれらの救いようがない、大法を破壊しつづけている邪悪生命に対しては、容赦なく正念を発して徹底的に取り除きましょう。
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