日本明慧

これが慈悲ですか?


2002年7月19日文/大陸大法弟子

【明慧网】こんな物語があります。昔々ある綺麗な小さな都会で、ある人が捕まえた鳥を売っている時、ちょうどある居士が通りかかりました。彼はかごの中の鳥が、甲高い鳴き声を出しているのを見て、足取りを止め、その鳥を買い取って、その場で鳥を放しました。鳥狩りは訳が分らなくて何故買ったばかりの鳥を放したのかと聞いたところ、在家の信徒は生き物を大切にします。これは鳥に対する慈悲だということでした。

鳥狩りは目をきらきらと輝かして、丸で啓発を受けたかのように見えましたが、翌日また数羽の鳥を捕まえて売りに来ました。例の在家の信徒は通りがかり、またあらゆる鳥を買い取って放してしまったのです。鳥狩りは望外の喜びになり、全力を尽くして鳥を捕まえ出しました。在家の信徒は全然弱みを見せないで、一所懸命鳥を保護しながら、あの鳥狩りの善心を動かそうとしましたが、相手は既に金銭の誘惑に陥っていました。

金儲けに目がくらんだ多くの商人らもこの金儲け道を狙って、鳥狩りに手を付けました。在家の信徒も、多くの同門弟子と出家の人を呼び集め、彼らの慈悲心を実現しようとしました。これらのやさしい人々に有り金をはたかせて、放生させるため、あの酷い悪徳商人は、売れない鳥をその場で殺して、彼らを刺激して買いに来させました。だんだんと、この城の鳥はほとんど余す事無く、やさしい人の金銭も使い果たされ、自分の明日さえ保証できなくなっては、鳥を保護する力など有る筈は有りませんでした。鳥の大部分が殺され、残りは永遠に城を離れて行き、美しい城はひっそりと静まりかえりました。

この物語は、馬三家に不法監禁されている私のある功友のことを思い出させました。彼女の夫への手紙にこう書いてありました。監獄の医者が彼女に潅食させようとする時、彼女は“これは貴方の仕事だと知っているから、私は貴方に協力します。”と言って、監獄医のやさしい心を動かそうとしたそうですが、私はそれを読んで却って悲しくなりました。先ず馬三家の監獄医にやさしい心があるかないかを別にして、このような方法で、結局あの監獄医を救うことができたのか?それとも彼女を気ままにして業をつくって、地獄に落としたのか?

先生は「大法弟子の正念は威力のあるものである」という文章の中で、すでに明確におっしゃいました。「如何なる環境においても、邪悪勢力の要求や命令、指図に従わないでください。」しかしどれだけ、災難中の修煉者が邪悪の要求に従って「罰金」を渡し、出勤、正規の歩調に合わせ、監獄の規則を暗記するとか“飛行機に乗る”など、これらは決して大法弟子の忍と慈悲では有りません。それは法に従ってすることではなく、優しい心が邪悪に利用されただけのことに過ぎません。

私達はこのような協力が、邪悪に協力しない弟子にとっては、どれだけの大きいプレッシャーになるかを、考えたことがありますか?あれらの、お金に目がくらみ、心を悪魔に奪われた悪人にどれくらいパワーを与えたのか?別の角度から見て、私達は彼らを救っているのでしょうか、或は、彼達を刺激して業を作り続けさせたのか?あの物語中の居士のように、好意が結局鳥を死なせ、人の心を悪くならせたことになるのではないでしょうか。

多くの功友達は労動教護所で遭難しているにも係らず、終始強靱でしたが、法理について余り語ることが出来ませんでしたので、只粘り強い人になりましたが、大法の威力は生かせなくて、長い間ずっと苦難の中で苦しんでいる訳です。彼らの善良は、悪人の官位が高くなり、お金持ちになるのに利用されるだけです。

私達は邪悪を目の前にして、大法の基点に立って、これらの迫害を、常人が人に対する迫害であるという見方をしては行けません。先生の法理に従って、正念を固め続け、邪悪のすべての手配に拒絶し、ぼろい儲けが出来ないようにし、業を作り続けるのを停止させることこそが、大法弟子の本当の慈悲であると思います。