日本明慧

正悟のとき思いついたこと


【明慧ネット】修煉の過程の中で、純浄の思想が真に現われたとき、私はその瞬間、無我のすばらしさを体験でき、私はそのとき、先生が示したのは極めて精辟、正確、明瞭であることに気づいた。

「入静できない原因は、思考が空になっておらず、次元がまだ低いからです。それは浅いところから徐々に深まっていくもので、次元の向上と表裏一体となっているものです。執着心を捨てれば、次元も上がって、定力も高まってきます。何かの手段や方法によって入静しようとすれば、わたしに言わせれば、それは外に向かって求めることになります。そうすれば煉功はかえって間違った方向へ行き、邪道に入ってしまい、外に向かって求めるということになるのです」、「本当の修煉は心を修煉しなければならないもので、心性が高まった時、心がはじめて清浄、無為に達することができます。心性が高まった時、はじめてわれわれ宇宙の特性に同化し、人間のあらゆる欲望や執着心、悪しきものを捨てることができ、はじめて自分自身の良くないものを放り出して浮かび上がってくることができます。宇宙の特性の制約を受けなくなれば、はじめて徳という物質が功に転化することができます」。(『転法輪』第9講)

我々の心が本当にきれいになった時、我々ははじめて、この世の物事は些細なもので、執着も同じく「それぐらいのことだ」と感じることができる。しかし、この執着の中にいるとき、自分はこんなに弱く、かわいそうで、それらの執着に引っ張られて、堅く自分の執着を守ろうとして、ほんの少し少なくなったら、心が痛いほど悲しくなる。我々の思惟がほんの少し動じて、また心にほんの少しの不純があれば、それらの執着にひっぱられ、そのとき、我々は見透せず、頭も深く考えられず、荒い雑物に干渉され、埋もれてしまう。そのとき、我々ははじめて先生の「標準に達した部分が隔離されて、こちらに残されているのはまだよくないもので、修煉でこれをいいものに変えるのです」という説法を思い出す。

我々は修煉の過程おいてこのような体験がきっとあるだろう。ただ程度が違うだけだ。本当にそのような無我の状況にいるとき、本当にすべて見透せるとき、それら執着を取除くのも簡単で、苦痛はないはずだ。まさに先生が教えたように「高い次元で修煉する時は、すべて無為で、動作も気機に導かれるがままに動き、意念による導引は一切なく、呼吸法なども問題にしません」。(『転法輪』)

執着を見透かし、法理を分かれば、自然と苦しいと感じなく、抑圧もなく、堅くかつ徹底的に完全に棄てることができる。しかし、我々は法理がよく理解できないとき、或いは心が完全に純浄でないとき、それほど不動にはできず、無為にはなれず、それら執着を見透すことができない。こんなとき、いくら棄てるといっても、自在にはなれず、多少に心残りがあり、苦痛があり、やせ我慢をしている。その原因は我々の生命に荷重があり、本来の思想がそれらの荒い粒子の荷重を受けて、影響されて、それで我々は自由自在にできないし、真理も見えず、真理に同化できない。

法に溶けこみ修煉して、我々は無意識に瞬間にそれらを突破でき、無為で平和な正悟の状態に達成できる。人間である状態に陥り、わざわざ愚かな方法で、排除しようとして、長い時間をかけてもそれら大きな粒子を排除できなく、しかも疲れ果ててしまう。

なぜそれほど苦しいのか? それほど疲れるのか? その原因は我々が先生の話を聞かず、知らず知らず自分が以前に作った人の考え方で自分の修煉を指導しようとした。しかし、「『佛法』はこの上なく奥深いものであり、世のあらゆる学説中、最も玄妙かつ超常的な科学です」、「『佛法』は粒子や分子から宇宙まで、最も小さいものから最も大きいものまですべての奥義についての洞察であり、それに含まれないもの、漏れるものも何一つとしてありません」。(『転法輪』)人間のその考え方こそ、人間が常人の謎の中から解脱できない原因で、その考え方でどうやって修煉を指導でき、修煉者を向上させることができるだろうか?

先生の説法には無限の力が入っており、方法は最も簡潔である。「『佛法』こそ、本当の善悪、正邪などを判別し、あらゆる誤謬を正し、正しい知見を与えることができるのです」。(『転法輪』)ただ我々はあまりにも保守的で、伝統な観念を変えようとしないので、狭い視野で自分の人間的な観念を堅く守ろうとしています。

もし我々が法を師として、先生の最も直接に人間の心を指し、直接に真善忍の宇宙の特性に同化する、方法にしたがえば、どんな粗い物質でできた心の紐も開けられるだろう。粗い成分でできた障碍も乗り越えることができるだろう。我々思想の中のある荷重の物質は我々が一生をかかっても取除くことができないもので、それはただの一層や二層だけではない! その層々の天体宇宙が、それほど大きな物質が我々を圧迫し、抑えている。我々が人間的な粗さ、有限さ、のろさでそれを突破しようとしてもできないだろう。

観念を変えよう、もう保守的にならないで、佛法はすべてを破ることができる。「『佛法』は、人類が無限の世界を洞察する手引きになります」。(『転法輪』)佛法はすべてを円満に説明できる。

正悟のとき、我々はすばらしいものが見える。正悟のとき、我々は自由自在で、正悟のとき、我々は法と緊密に溶け合うのである。

以上は個人の体験で、もし間違いがあれば、ご指導をよろしくお願いします。