日本明慧

大法を先生として、正念を用いて夢で見たことを考えるべき(要約)


8月27日

【明慧ネット】最近、私が会った同修にしょっちゅう夢のことについて論じている人がいます。そして、夢で見た内容によって師父があれこれ教えて下さっていると推断していて、非常に強い執着心を見せています。一方、一部の同修は、師父は夢に限らず、例えば他の人の口を借りて様々な形で教えて下さっていることなども主張しています。インターネットにも夢のことについて同修達の文章があるようです。この話題について、今回私の見解を話させて頂き、同修達にご参考になることが出来れば幸いと思っております。

私個人の考えでは、夢で見たことは私たちが日常生活で出会ったことと同様に、我々の修煉中の一部分であり、我々はこれらのことによって悟りを開くことができるかもしれませんが、逆に妨害を受けることもあるかもしれません。夢の特殊なところとしては、関係のない人と物事が夢には出て来ず、我々に深い印象を与えられることです。しかしながら、夢の中で見たことであろうが、日常の生活で出会ったことであろうが、いつでもどこでも、我々は大法が第一、自分が正法時期の大法弟子であることが第二ということを忘れではいけません。何があっても、常にこのように自分を問うべきです。これは大法の要求にかなうのか?これは法を正すことに対してどのように影響するのか?これらについて肯定的であると答えられるならこれは個人の修煉に対してどのように影響するのか?すなわち、いつでも大法を先生とし、大法を用いてすべてを評価すべきであり、夢で出た具体的な内容に拘り、自分勝手にその意味を推測し、夢を解釈することに執着してはいけないと思います。師父はこう教えて下さいました。「君は問題を見る時,君はもう彼のその中に陥いて見ることをしないで,君はこの具体的な問題の中で事に即して事を論じることをしないで,君は飛び出てこの問題を観察して見て,それは真 善 忍に符合するか符合しないかを見る。若し一人の修煉が良い人,或いは一人の神、菩薩がこの事をするなら,どうするか?君はこのように考えると,正念が出ると君はすぐ分かるはずだ。」(「法輪佛法(アメリカでの講法)−ニューヨーク座談会での講法」)、「明慧にして惑わざるは自ら負うべし」(「法輪佛法(精進要旨)−堅定」)。
この角度から我々には以下のことが分かるかと思います。一部の同修が言及した夢の内容の中には、確かに師父が教えを下さって弟子達を精進させるために示したものがありますが、一方、同修自分自身の執着心によるものもあるようです、もしこのような夢で「教えたこと」に従って行動すれば、自分の修煉の道が邪悪によって妨害や迫害を受ける恐れがあると思っております。

我々は常に自分が修煉で出会ったこと(夢で見たことも含む)を真剣に考えて分析するべきであり、大法を基準にして物事を見るべきだと思います。これらの物事は、大法を正すことに有益であるのか、大法を実証できるのか、或いは自分と大法と一致していないところを示してくれているのか、心性の面において自分にどんな不足があるのかを見せてくれているのか、もし、大法と一致していなければ、邪悪の魔による妨害と迫害に違いなく、これに対して、我々は正念を出して解体させ、これらの問題をはっきり区別しなければなりません。「揺るがない心一つで、すべてを抑えます。」(「アメリカ中部の法会での講法」)。

我々はいつでも大法を先生とし、いつも自分自身の内部に向かって問題を探し、どこでも大法を最高位にするべきだと思っております。このようにしてこそ大法に対して責任を負い、自分に対して責任を負い、又は衆生に対して責任を負うことができると思います。

以上は個人の認識であり、不適切なところがあれば慈悲で指摘していただければと思います。