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私が矯正労働所で受けた迫害の事実

【明慧ネット】2001年1月1日に、私は北京へ陳情に出かけたが、天安門広場で逮捕され、北京城区留置所へ他の9名の大法学習者と一緒に暖房のない部屋に監禁された。公安警察は3枚の布団しかくれなくて、我々10人はこの3枚の布団で寒さを凌ぐしかなかったが、公安警察はまた故意に窓を開けて我々を凍らせた。彼らが私に何処から来たのかと訊問する時に、電気警棒を使い、私を電撃し殴った。その時、私は他の人に迷惑を掛けないように、自分の住所も教えなかった。我々は拉致されたことに抗議するために、絶食した。二日後、公安は我々を別の部屋へ移動した。移動した時、両手は頭を抱えて歩くようにさせられたが、私は拒否した。そのため、公安警察は電気警棒を私に感電させ、警棒で私を殴った。私は酷く殴られ、身動きが出来なくなり、立つことも座ることも非常に苦しかった。それから数日後、我々が隔離され、私一人が一統一所へ入れられた。公安が私に所内の囚人服を着替えといわれたが、私は拒否した。その為、又も電気警棒で電撃された。同室の犯罪者に名前と住所を吐くように冷たい水でかけかれ、また絶食が出来ないように、唐辛子の入った水を無理やりに飲まされ、寝させないようにさせられた。犯罪者らは私に「俺らも決してこのことはやりたくないのだ、公安警察に命令させられたのだ。」と。1月6日、私は絶食して6日目になる。公安は私に食事をするために電気針を使い虐待していたが、私はそれでも食事はしなかった。そして、公安は私に強引に食物を口に流し込むことにした。その時に、同室の犯罪者達は私に、私の絶食行動が彼らに警察から強過ぎる圧力になっているのだと言った。それを聞いてから、私は彼らの為に食事をし始めた。その後、ある犯罪者が私に「あなたが最初に一統一所に送られて来た時に、3日間の間はつづけて痛みつけてやってくれと、公安に命令されたのだ。」と。

彼らは私の身体に警棒に殴られた痕を目にしたので、最初の2日間は誰も私を触れなかった。数日後、公安が又も私に訊問をするが、同室の犯罪者はもう誰も公安の言うことを聞かなくなった。彼ら全員は私の味方になったのだ。

1月11日に私は取り調べを受けさせられた。公安は最初に窓を開け、私を寒さに曝してから、君達の上京陳情は北京のオリンピック主催権申請に不良影響を与えたから、北京人民を代表して君を殴る、といった。彼は先ず手で私を殴り、それから警棒で私を殴った。そして、私を別の牢屋へ入れ、そこにいる犯罪者達が交代で私を拳骨で殴り、足で蹴ったりした。私は「法輪大法は素晴らしいものだ」と叫んだ、公安がすぐに警棒で私を酷く殴った。それで、私は耐えられなく失神した。私は歩けなくなったくらい殴られて、立ったら座れられなくなり、座ったら立てられなくなり、寝返りも出来ないほど身動きが取れなかった。

1月17日、私が所属している地元の公安局の者及び勤務先の責任者が迎えに来た。勤務先の責任者は私に、今回の件で勤務先と家族からはかなりのお金を出させられた。(家と勤務先はそれぞれ5千元を強制的に出させられた)1月18日に私は延吉へ戻った。戻っても先ずは15日間拘留された。拘留された間に、同室の者に私から法輪功を放棄するように説得されたが、私は彼らに法輪大法の善いところについて話した。その中の一人の朝鮮族老人が私に次のように言った。「以前はテレビで偽りの法輪功の放送を信じていたが、今はあなたの体の傷痕を見たら、そんなことはもう信用できないのだ。」と。

2月19日、私は労働矯正所へ送られた。そこで、大法学習者達は強制労働させられ、法輪功を中傷する資料を読ませられ、そして、じっと座っているように罰される。すこしでも動いても、すぐに殴られ罵られる。又、私に法輪功を放棄するように親族を連れて来て説得に当てたが、私は動かされなかった。科長李文斌が私を指して人間性の無い人だと言って、私をスリッパーで殴り、口元に血が出たほど殴った。

12月19日、私と他の大法学習者と一緒に吉林省九台労働矯正所へ移送された。強制的に労働させられる間に、他の人と言葉を交わすことも許されず、一言でも発したら、殴られ罵られることになる。ある日、テレビのニュースを見ていると中傷する内容が出ていることで、私はこのニュースは全部嘘だと指摘した。大隊長唐文波、幹事劉夕多、隊長趙奉山ら5人が交代で私を殴った。更に、今からは法輪功学習者を厳しく打撃するのだといって、それで殆どの学習者も殴られた。信仰を放棄しない人は全員電気警棒や靴で顔をやられた。趙奉山はおまえ達に泣き喚くようにしてやると言った。妥協した者は強制的に「五書」を書かせられた。ある日、大法学習者が強制的に洗脳用の材料を読ませられたが、私は拒否した。そのため、唐文波が靴の底で私の顔面を何度も殴った。

2002年4月1日、私の非合法的労働矯正刑の終了日となった。が、矯正労働所は私を釈放しないばかりでなく、不法に2ヶ月の刑期を追加した。私は2002年6月11日にやっと釈放された。

私は不法に監禁された間に、心の中で恒に次の信念を持っていた。「師に従い、大法を守り証明し広めることを手伝おう。私は大法の一粒子として、大法の真実に泥を塗ってはいけない」と。