日本明慧

「なぜ足が遅いのでしょうか」から「早く伝えよう」まで

文/雲天 

【明慧ネット】自分が長い間ある非常に強い常人の執着を手放せなかったため、甚だしい時には、それが私の修煉に与えた深刻な効果に気づきません。昨夜師父はついに夢という形で、悟性が良くない私に気づかせてくれました。

それは非常に長く怖い夢でした。師父はこの夢で、私に自分の執着心が他の空間では実はどのように現れているのかを意識するようにしてくれました。あの邪悪なものが私の身体に近づいて来る時、私は初めて恐れを感じました(師父が部屋の外をカバーで覆ってくださったから、全く入ってきませんけれども。)、しかし、現実では意識されず、これも自分が見せ掛けの現実に迷っている結果です。どうりで自分がこの前、現実世界では真相を伝えるのを怠けていますが、夢の中ではあきらかに真相を伝えるのに夢中になっていたわけです。

夢の中で、ある修煉の先輩が「撤」という字はどんな意味かを気づかせてくれました。(今とうとう師父が何故中国語で法を伝えるのかを少しだけ分かりました、漢字の内包はとてもとても深いです、たとえば、「神伝文字」という文章の中の一番良い文字の種類です、そのすべての文字、すべての讀音、すべての偏と旁部首まである意味を表しています。)左辺の偏と旁「手」(shou)は「首」の音で、意味は「始まる時」です。「撤」(che)は「車」の音で、意味は「大法を修煉する道はまるで車を運転して行くように、途中精兵のように休まずに走り、永遠に止まらない」、右辺の偏と旁「反」の意味は「最後に至っては反対になって、停滞して前進しない、甚だしきに至っては後退する」。この文字一つは「撤退」の意味です。考えてみてください、これは正法時期の大法弟子の精進の表れでしょうか。これは師父が話したあの、大きな環境では修煉して上がれるが、外界の環境を失うと自分をうまく把握できないのあの中士が法を得て修煉する行為ではないでしょうか。師父がおっしゃった「なぜ足が遅いのでしょうか」は、自分が深く隠して取り除かずに執着して放さない心があり、修煉するのに漏れたところがあるということです。しかもこれが現在自分の神聖な歴史的使命に直接影響しています。

自分が歩んできた道を振り返ってみれば、いろいろな原因があって、昔の同修達と分かれました。(これは一人一人の修煉者はみんな自分が歩むべき道、個人が証悟すべきものを確立し、特にこのような歴史時期において、一人一人の修煉者がもたらしたさまざまな要素、自己修煉過程の表れ、自分のその地域の衆生と接触し、彼らを済度し、或いは他の衆生と縁を結ぶ、などがあるためだと私は認識しています。)。しかし、長い間同修との交流が欠乏したため、多くの場合は精進していないように見え、法を学ぶことも煉功することも怠け、安逸を求める心がいろいろ方面で表れます。たとえば、煉功の苦しみに耐えたくないとか大法の本を読むとき心で読めない、孤独を嫌がり、長時間眠くなり、常人の様々な肉親の情、友情、男女の感情等に思い慕い、何事も周りの常人との比較や、私自身の基準で自分が正法のためにどれだけ貢献したかを考えて、いつも非常に素晴らしいと思い、時にはもっと悪い心が生み出されても自分は気づかず、自分が毎日やらなければならないにもかかわらず、実際にはうまく出来てない三つのことに直接影響を及ぼしています。

実はこれも個人修煉のことです。良く修煉している同修は、多くの個人的執着をすでに取り除き、しかも真相を伝え、衆生を済度する面で堅実な一歩を邁進しました。私はただ私と同様に、ある執着の泥沼に落ち込んで停滞して前進しない同修に知らせたい。これ以上漠々とせず、自分の執着心を取り除けないため落伍し、進路を見つけられないようにはならないでください。知っておいてほしい事は、これは師父がおっしゃったことですが、あらゆる捨てられない執着は、修煉者が修煉して上がるか落ちるかを決める作用があるということです。実は師父は私達自身よりももっと私達を大切にし、この千古の縁を大切にし、どの大法弟子が落伍するのも全然見たがらず、時々刻々あなたを保護しており、あなたの一歩一歩を正しくしています。それは、あなたはもともとより大法の粒子になるはずだからです、大法粒子の作用を発揮するわけです。

良くやってないとか自分が良くやったと思う同修達は、現在私達が夢から目覚める時期ではないでしょうか。われわれが現実の生活中において良くやってないように見える全てのことは、他の空間ではもっと悪く現れています。「なぜ足が遅いのでしょうか」から「早く伝えよう」まで、師父が指摘してくれたのは個別の同修だけではなく、私たち全てであり、含まれない者はおりません。偉大な歴史の時期がわれわれを必要する時、自分と関係ないように見えるが、実は自分の元来の世界の衆生が、われわれが良く修煉する過程で彼らを済度することを期待しているとき、邪悪なでたらめな鬼が最後に必死にもがき、間違いなくわれわれの弱点を捜して迫害をする時、われわれは必ず偉大な師父が按配してくれた修煉の道にしたがって勇猛に精進して行き、「撤」して前進しないのではなく、本当に実行すべきことは実際の行動で自分が以前の修煉中において不足したところや更に自分が一時的に把握できなかったため大法に与えた全ての損失を「撤」してしまうべきです。

以上は私が夜明け方3時ごろ夢からさめてから書いたものです。いかなる錯誤とか不充分なところについて、同修達の指摘をお願いします。