日本明慧

私の修煉体験

2002年コペンハーゲン交流会におけるドイツ学習者の経験

師父、同修、そして客員のみなさん、

私の名はモニカと言います。61才で、ドイツ、フランクフルトのマイン河畔から来ました。退職前は、私はドイツのテレビ局でフィルムの編集をしていました。ドイツ法輪功情報センターの任務において、私の記者かたぎのメディア関係の経験が役立っています。

今日私は皆さんの前に立って、胸がいっぱいです。過去三年の修煉で私は多くを学び、多くの困難を体験し、すばらしい経験を積みました。これら全ての過程を通して、私は長い間禍していた多くの観念を取除きました。それらは、特に私の気短さは、どうせ放棄したかったものでした。このクセは時々表面に現れ、しばしば私の善の心を揺るがします。師父の教えがいくらか私に飛躍を与え、学習者はいかに師父の経文を、特に転法輪を毎日読むことが必要であるかを、深刻な報いの後に私に分からせてくれました。それらは法を正す為の私の責任を果たすのに肝要です。

私をついに真の目覚めと、持続性のある行動へと押したのは、今年のボストンでの説法でした。そして私はもう少しでそこへ行かなかったかもしれなかったのです。何かが私に、この旅は私の執着に関係なく、ボストンへ行かなければならないのだと分からせるまでに、二度飛行機の予約をし、二度取り消しました。そこで私の修煉を向上させる何かに、私をより良く導く何かに出逢うだろうという、厳かな感覚があり、その通りの事が起りました。

ボストンでの最初の大きな教訓は、師父の慈愛を通してやって来ました。師父に会ったとき、師父の説法の訳が殆んど理解できない難を経験しました。疲れすぎたことで自分を責め、懲らしめましたが、後程気付いたことは、師父の言葉を理解する必要はなく、私は、全ての生物に対し全てを包囲する慈愛で輝く、師父の態度を例に学ぶことができたのでした。それが師父の手本でした。その経験により、私はまだまだ学ぶことがあるのだと気付きました。私はしばしば慈悲や忍耐や十分な善良さに欠けると、肉体的徴候を経験します。すると、ボストンにおける師父のイメージを思いだし、次は良くなるよう努力します。

ボストンでの二番目の教訓は、法の勉強に関するもので、特に大法の仕事が多い時、私達の多くは法の勉強を怠っているという実感でした。師父は言いました。「あなた達が口論する時、日々の法の勉強を怠っている為に、又は修錬においてだらけてしまった為に、常人の口論のやり方になってしまうのです」(2002年ボストンにおける説法)。私達がお互いに争っていたなら、どうやって法を正す為に師父を助けることができるでしょうか。私の周囲でこの様な状況が現れる度に、この様な状況は修煉と次のレベルへ上がる為の機会であり、何よりも法の勉強をもっと良くしなければならないという注意を呼び掛けます。私達がそうするなら、違った見解をす早く持ち、より良い態度を持つでしょう。現在私はより多く読むようにしており、同時に、読み始める前に「周りのものを全て整然としておきたい」執着を放下しようと努めています。午前中に読むことで、より成功しています。又私にとって煉功は朝するのがやりやすいです。より早く読めるようで、又残りの一日が自然に整ってくることに気付いています。大法の為に何をする必要があり、どういうふうにやるべきかはっきりしてきます。そうして物事の自然に従うと、大法の仕事をする多くの機会が自然にやって来ます。

法を正す時期の私達の重要な役目が、一歩一歩分かってきました。中国で法輪功の禁令が出た時、私はやっと修煉を始めたばかりでした。私は憤慨して、純粋に人間のレベルで、国連総長、コフィ・アナンさんに手紙を書きました。中国における迫害に抗議し、ドイツの人々や、政治家、関係組織の注意を中国人学習者の苦境に向け、行動をとるよう促す他の多くの手紙やチラシが続きました。その様に関与することにより、私は次々と私の立場を説明し、私なりに中国人学習者の為に外部に向かって間に入り、中国における状況を描写しなければなりませんでした。

始めの頃は、「案内の日」(訳者注: 弘法活動?) に参加する為に他の町へ運転して行く気になれませんでした。しかし、フランクフルトで行われた時は、言い分けがありませんでした。最初私はためらいがちに、恥しげに、公衆の前で煉功に参加しました。しかし、一回デモンストレイションをする度に、私の責任感は高まりました。私ははにかみを乗り越えて、請願書を持ち、チラシと、単に中国から聞いた学習者に対する犯行についての知識をもって、人々に近づきました。

ジュネーブで始めての時に、私達1500人が国連ビルの前でデモをしました。それから人権組織とメディアとの接触がありました。それぞれの企画に先立って、私達は成すべきこと、何ができ、何が許可され、どこまでやるとやり過ぎなのかをはっきりさせる必要がありました。無知故に迫害に対し何もしない人々に向けてどの程度まで慈悲を持つ努力をするか、そしてどうすればこの邪悪を有効に挫折させることができるかという質問が生じました。これらの人々がやる術無くわきに立っているのでなく、積極的に迫害との戦を助けるよう勧め、そしてどの様に助けることができるかヒントを与えるのは、私達次第でした。これらの行動が彼等の未来に影響するはずでした。
広範囲に広がった中国における迫害は、ゆっくりと、次第にしか私に分かりませんでした。何故なら、殆んどの情報はインターネットから来るもので、それは私が二年前まで通じることの出来ない出所だったからです。息子がしきりに勧めたラップトップ・コンピューターに、私はひどい嫌悪感を持っていたのです。法を正す為の義務を果たす為に、可能な限りの早い方法と早さで、私はこの毛嫌を克服しなければなりませんでした。テクノロジーとの戦いは数ヵ月続きました。私は歯を食いしばり、約束の翻訳を完成する為に、手紙を書き終える為に、何はともあれ強い決心をもって各々のそして全ての仕事を頑張り通しました。度々朝のちょっとした時間までコンピューターの前に座っていました。又これら夜間の仕事中、誰に助けを求めることが出来るかを私は知っていました。私をしばしば無条件で助けてくれた多くの中国人学習者の忍耐には、私はいつも感心させられました。

私は又、ドイツ中のメディアの混乱した「思潮傾向」に気付きました。恐ろしいことに、出版関係メディアは人権虐待に関して正しい報道をし、しかも、中国の嘘宣伝機械で使われた言葉通りに印刷し直しました。それにより知らずに法輪功の評判を損傷し、中国政府の行動を許しました。これは私にもう一つの内面の障碍を突破することを、よぎなくさせました。私は正しくメディアに知らせなければなりませんでした。情報の出所は中国にあることに私は気付き、事実何が起きているのか報道員に知らせる為に、即座に中国へ行くグループに加わる決心をしました。それは中国人なら殺される危険のある計画でした。それが私に中国学の学生と共に旅をさせることになりました。私達はなんとか数多くの主な報道員に連絡をとることが出来ましたが、会見の結果は様々でした。その一つは事実私達に損傷をもたらす記事を出しました。ドイツに帰ってから、私達はこの記者の心を勝ち取る為にかなりのエネルギーを費やしました。困難な道を辿った末、二人の編集責任者に辿り着きました。これは私達にとって大きな挑戦となり、責任の重さを感じさせました。法を正すことにおいて、過失の余地はありませんでした。私達の態度が結果に影響することになるかもしれなかったからです。それは思いがけない結果となり、今では私達はこの報道員に、入手困難な情報を自由に頼めることになったのです。

ドイツのメディアによる報道を補足し支持する為に、私達はドイツ法輪功情報センターの為にチームを作りました。ニューヨーク法輪功情報センターと密接に働く小さなグループですが、時を経るとともに、より独立したものになりました。新しいプレスリリースは各々違った扱いを要求しました。各事実は正確でなければなりません。そして私達が達成したいタイプの成果において厳格でなければなりません。普通行動を起す前に、私達はお互いに法を正すことに照らし、とろうとする方法全体を明らかにします。何故なら、問題に対する私達の見方が異なるレベルにおいて異なる結果をもたらすことがあるからです。そして私はこの質問を心の中で何度も繰り返すのです。「できるだけ早くこの迫害を終わらせ、これら迫害に苦しむ不幸な人々に安らぎをもたらし、虐待に苦しむ日を一日でも少なくし、凶行者がすでに積み上げた罪の上に、更に新しく積み上げることのないように、私達は何をより良く為すことが出来るのか」。

昨秋私は中国への団体旅行を申し込みました。自然に、始めはぼんやりとでしたが、私の計画は天安門広場訪問と法輪功に対する迫害と犯罪の公言が含まれました。私の簡単な計画がすぐに、江沢民のもくろみに反対しようと、そして中国人に法輪功が外国で又西洋で学習されていることを見せようと、それぞれの志を抱く36人の西洋人グループに膨れ上がろうとは想像できませんでした。私達の計画は、世界の注意を中国人学習者の苦境に引き付け、私達の団結を見せることにあったのです。2001年11月21日が指定されました。
天安門広場では、私達のグループはたった一分足らず穏やかでした。それは私が中国での状況について、迫害と拷問について人々に告げた時の、今でもその効果を失っていない写真の為に十分な時間でした。私は自分がそこに居たと、言うことが出来ます。人は断固として前へ進み出なければならず、時にそれは大きな一歩であります。邪悪に出逢ったなら、それを止めさせなければなりません。そうするのに、可能な全ての方法を利用しなければなりません。

江沢民は今年四月に国を訪問しました。私達の多くは彼が訪れる場所へ車で行きました。集中的に正念を発し、迫害を非難するバナーで彼に立ち向かう、絶対的意志がありました。しかし私達の努力にもかかわらず、彼の手先はドイツのその筋になんとか強い圧力をかけることをやってのけ、彼の諜報部員が実際にドイツの土地で私達を手荒く扱う程にまでになり、私達は殆んど完全に彼の視野から追放されてしまいました。どうしてこんなことが起りえたのでしょうか。皆が各々自分の内部に向かって、理由を捜さなければなりません。経文「圓満成就に向かって」の中で師父は言いました。「旧邪悪勢力があなたの隙に付け入るのを防ぐたった一つの方法は、法の勉強に時間を有効に使うことです」。私は江の訪問に先立って、正にそれを怠っていました。私達は邪悪の按配に気付くのが遅すぎ、状況を正しい方法ですぐに正すことをしなかったと、私は思います。

2002年10月7日