日本明慧

私は全ての邪悪を射抜く仏の光の一部としてそこにいるでしょう

西洋の弟子 

弟子の仲間の皆さん今日は。

もうすぐテキサスへの旅が来ますが、私の思っていることを皆さんにお話ししたいと思います。先週の週末まで私は自分を熱心な修煉者と思っていました。月曜から金曜の間、私は働き、修煉の動作をし、大法を学習するのが常でした。自分が大法を深く理解するようになり、また、急速に向上していると感じていました。先週末、私はすわって野球とフットボールを見て相応の休みを得たような気分でいました。

昨日は沢山時間があったのに大法の学習も5番目の修煉動作もやりませんでした。私はどうみても慢心していました。李先生は私が先生に充分に感謝できることはないとおっしゃいませんでしたか?慢心していけないとおっしゃいませんでしたか?修煉は困難に耐えることだとおっしゃいませんでしたか?修煉は私の人間的な執着を取り除くことだとおっしゃいませんでしたか?

今朝起きた時、私の考えは落ち着きがなく修煉動作がためになるほど落ち着いた気持ではないと自分に言いきかせようとしていました。私がはっきりと自己修煉と大法が正す時の弟子の違いに気がついたのはこの邪魔がおきている最中でした。私は自分の使命に気がつきました。さらに、私がこう理解することでどんなに邪悪を怖がらせるかということに気がつきました。このことが私をテキサスのことに向かわせます。

テキサス行きのことを始めて知った時、私は職場の休暇が無くなっていました。お金も少ししかなく家庭では困難を経験していました。行けない理由は沢山ありました。それに、私はここからでも正念を送ることができます。それで同じことではないだろうかと思いました。そうしたことを考えている最中に私はあることに気がつきました。

私は法輪大法の弟子だということです。私の低い人間的な理解ー私が正に取り除こうとしていた執着によって汚染されている理解ーで無限の大法に限界をつくっていいものだろうかと思いました。ここは私の先生、私に私の徳と同情を見せるようにおっしゃった大いなる同情を持った私の先生の住んでおられるところです。邪悪があつかましくそこを卑劣に欺こうとしてやって来ようとしているのでした。

しかし、邪悪があるところには善良もあります。さらに、人間の善良さの上に大法弟子の壮大な同情があります。私は全ての邪悪を射抜く仏の光の一部としてそこにいるでしょう私はこの訪問を経験する人類が大法弟子の同情と真実とはかりしれない徳を直接知るようにそこにいるでしょう。人々は私の目を見、私の言葉を聞くことができます。人々は一千の聖なる者達のエネルギー場を経験できます。私の心は強く考えは明確で、邪悪は怖じ気づいています。これは私の使命であり私は準備ができています。

私仕事を休めるかどうかわかる前に飛行機 の切符を買いました。私は心の内側の邪魔をしている執着を捜し、正直に誠実に上司に話しました。彼は来年の分の休暇から休みをくれることに同意しました。全てが自然に行くでしょう。もし試練に会えば自分の執着を捜します。他面の自分を現わして大法の全能と真実を感じるでしょう。邪悪は時々強いように見えるかもしれませんが、それは私がそうさせているからです。私達は一体であり大法の一部です。一体としてこれを為し遂げましょう。いきているものを救って真実を示しましょう。

弟子達よ、前進。

Posting date: 10/17/2002
Original article date: 10/17/2002
Category: Practitioners' Insights