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歴史の選択(二)

【明慧ネット】歴史の選択〈二〉—— 悪に共鳴し共に舞う

〈二〉隣国の緊急事態に略奪を計る、悪に共鳴し共に舞う
チャーチルは次のように言った。“ドイツがチェコを消滅させたとき、ポーランド人は姑息な手段によりチェコのトセンを占領した。しかし、すぐにその付けを払う羽目になった。"ヒトラーがチェコを占領してから、ポーランドにも領土要求を出したが、ポーランドは断固として拒んだ。そのためポーランドに電撃攻撃を仕掛け、第二次世界大戦の幕が切って落とされた。

電撃攻撃は1939年9月1日から行われ、ポーランドの軍隊は勇敢に戦ったが、数の面でも、防御、装備でもドイツの相手ではなかった。一週間後、ポーランド軍は総崩れとなった。ポーランド軍とドイツ軍が戦っているとき、スターリンが行動を起こした。9月17日、大量のソ連軍が無防備なポーランドの国境を越えた。18日、ブレストでドイツ軍と合流し、スターリンとヒトラーが談合した。

戦争が勃発する前から、スターリンは慎重に利害得失を図っていた。イギリスとフランスを捨てて、ヒトラーと十年間の『独ソ相互不可侵条約』に調印した。チェコが占領されたとき、英仏両国がヒトラーに怒ったが、それでもヒトラーはポーランドに圧力を加えた。ポーランドはドイツの相手ではないことをスターリンはよく知っていた。もしポーランドが侵略されたら、英仏は絶対黙ることはないと判断して、狡猾なスターリンは熟慮した後、ドイツ側につくことを決めた。もし、英仏とドイツの間に戦争が起これば、共倒れとなり、己のみが利益を得ると考えた。ドイツが西部戦線で戦っているとき、スターリンは広い国土においても、東の国境に兵力を集結させる時間が十分あると考えた。

卑劣な条約が誕生した。「独ソ間相互不可侵条約」及び1939年9月に追加調印する協議が行なわれ、ポーランドの東部とビサラビアをソ連へ割譲した。これによってスターリンに北ヨーロッパを侵攻するための条件が整えられた。同時にある秘密協定の中で、ドイツは政治上ラトビア、エサニア、とフィンランドに興味がないと表明していた。それ故、ドイツがポーランドに侵攻した2ヶ月後、スターリンがフィンランドに宣戦した、フィンラン
ド軍は奮戦し、ソ連軍に大打撃を与えたが、1940年3月に陷落した。

1939年8月23日に調印された『独ソ間相互不可侵条約』が第二次世界大戦の導火線となった。ヒトラーはスターリンが全力で北ヨーロッパに侵攻し、ドイツに構っていられないことを知っていた。一週間後、彼は安心して、ポーランドに侵攻した。そのときも、スターリンは戦争用物資を続々とヒトラーに送り、1938年、ソ連は33,154トンもの石油をドイツに売ったが、1940年までで、700,000トンにも上った。1941年1月、独ソ両国が6項目に及ぶ大型協力協議に調印した。協議によると、ソ連は1942年以前にドイツへ6.2億〜6.4億ドルの戦略物資を提供することになっていた。スターリンが自ら命令を下し、ドイツに銅6,000トン、ニッケル1,500トン、錫とタングステン、モリブデン各500トンの追加輸出を行った。ドイツ戦争部経済局長のトーマス将軍は、後にドイツ戦争経済について次にように語った。“ソ連は私たちに、ソ連との間に戦争が発動するまで、ずっと物資を提供し続けた。最後の数日までも急行列車でゴムを送ってきた。” 

スターリンがドイツに援助することは、愚かな決定であったこと間違いないであろう。彼はドイツが東部と西部の二つの戦線を張ることは不可能だと考えた。事実ドイツはイギリス上空の空中戦に傾倒していた。故に、スターリンはヒトラーのソ連侵攻に関する情報を数多く入手したにもかかわらず、それを信じなかった。
当時、西部戦線の状態としては、ヒトラーがドーバー海峡を越えることは不可能であった。彼は海上及び空中における優位を占めていなかった。しかも、イギリスはアメリカから継続的補給と直接的支援を受けていた。ヒトラーはイギリスを壊滅できなかったら、ソ連を壊滅しなければならない。そうしなければ、ヒトラーは二つの戦線で作戦を実行しなければならないというリスクがあった。

30年代、スターリンが粛清運動を起こし、1,200万人を銃殺した。ソ連前二期政治局委員はレーニンとスターリンを除く全員が、処刑死と自殺であった。当時5人の元帥の中で3人が殺され、5人の集団軍司令官中3人が銃殺され、二級軍団司令官10人全員が銃殺され、85人の軍団長のうち57人が殺され、195人の師団長中110人が殺された。1937年から1938年の2年間で、赤軍将校35,000名が処刑された。ソ連軍の精鋭がほとんど失われた。

ソ連とドイツの間で調印した条約、および1939年〜1940年に渡るポーランドとの戦争におけるソ連軍の戦闘能力の低さにより、ヒトラーはソ連が強くないというイメージを受けた。ヒトラーはイギリスを攻撃することを断念し、ソ連を攻撃することに決めた。

ドイツ外交官はイタリア外交官に、次のように伝えた。もし8週間以内にソ連を壊滅できれば、ドイツは後顧の憂いもなくなり、ソ連の食糧、石油、金属、機器を占有し、再度イギリスを攻撃することであろう。

邪悪な者が賢いと言う訳でもなければ、独裁者の判断が正確と言う訳でもない。スターリンの企みがスターリンを誤った道に導いた。22ヶ月後の1941年6月22日、スターリンとソ連の百万に及ぶ生命が極めて高い代償を支払った。チャーチルは次にように言った。“ひとつの政府が全く道徳を尊重することなく、不正な手段で利益を得たとして、したい放題のように見えるが、「毎日終わったときに精算するか、末日が到来した際にまとめて精算するかである」”