佐渡島への旅
2002年10月20日 文/日本大法弟子
【明慧ネット】10月12,13,14日の三連休を利用して、日本海に浮かぶ自然の島、佐渡島へ行った。海もあり山もあり、澄みきった水と空気で育った柿、大空羽ばたく鳥たち、大きな花びらをときめかせる色とりどりの花たち。船で佐渡の地に着いた私は、このような情景を見て思わず息を止めた。
佐渡に向かう船で、真っ赤に焼ける夕焼け空を見ながら、「容子さんが2年半生活してきた佐渡、羽茂町はどんな所だろう」と想像を膨らませた。一方で「容子さんは今どんなに辛い目に遭っているのだろう・・」と考えた。5月24日から早くも5ヶ月近くが経とうとしている。容子さんや、ご主人の篤志さん、ご家族の方々は、どんな思いで耐えてきたのだろう。
12日の夜に佐渡島に着き、容子さんのご主人である金子篤志さんと夕食を食べた。今回、私達取材班の訪問に連休を費やしてくれる篤志さんは、容子さんが非法に拘束されて以来、様々な方法で妻の救出を呼びかけた。7月29日には、有志国会議員21名による、「金子容子さんの早期釈放を求める超党派議員連盟」(会長:牧野聖修衆議院議員)が成立した。8月15日には、北京にて容子さんとの面会を果たした。容子さんの体は非常に衰弱しており、生気が抜けた様子で、以前の容子さんとは全く別人のようだったと言う。現在に至っては、中国側は面会の許可も許さず、ビザも発行しないという状況だ。
次の日、夜明け前から取材に出かけた。次第に明るみ始める空の方へ、海沿いに車を走らせた。杉の浦という本土との距離が一番近いところへ着き、カメラを待機させた。朝霞みがかかっていたが、午前6時ちょうど、薄っすら見える本土の山並みの方から、真っ赤な太陽が顔を見せた。雲を真っ赤に照らし、今日も希望と夢に溢れる一日が始まる。
篤志さんの家へ行くと、朝から忙しくしていた。90歳を超える篤志さんの祖母を取材した。彼女は容子さんがいなくなって少ししてから、家の前で転倒し、腰を痛めてずっと寝たきりの状態だった。最近ようやく起きられるようになった。彼女は毎朝起きると、仏壇の前で経を読み、容子さんの無事と釈放を祈る。「私にはこんなことぐらいしかできないんですよ・・」とうつむく彼女は、容子さんと過ごした日々を語った。「日本語を一生懸命に覚えようとしてよく勉強していました。いつも私を優しく気遣ってくれ、風邪なんかひいたときは2階からいつも様子を見にきてくれました。私が畑へ行くときは、おばあちゃん気をつけてね、と窓から手を振ってくれました。ときどき容子さんが帰ってきた夢を見るんです。朝起きて、あぁ夢だった、と目が覚めると、本当に容子さんに早く帰ってきてほしいと願わんばかりです。」そう言って今日も、弘法大師にお願いする彼女の後ろ姿を見ていると、この家に嫁に来た容子さんと過ごした日々が、生きがいのようであったに違いない。
私たち取材班は、篤志さんと、篤志さんのお母さんと一緒に、柿もぎに行くことにした。約300本の柿の木を抱える篤志さんは兼業農家として、毎年この時期、柿の収穫で忙しい。いつもは容子さんが手入れをしているが、今年は容子さんも不在で、なかなか手が行き届かなかったため、どうやら不作らしい。柿の仕分けをしながら篤志さんのお母さんに話を聞いた。「家事は全部任せていましたよ。畑仕事もよく手伝ってくれるし、容子さんがいなくなって家はめちゃくちゃで、本当に困っとるんですよ。最初に容子さんのことを聞いたときは、本当にショックでした。なんであんなにいい人がこんな目に遭わにゃならんのですか。なんで気功をやっとるだけでそんな酷いことされるんか、私には本当に分かりません。」容子さんの処遇を受け入れられない彼女にとって、容子さんの存在は非常に大きかったのだろう。また、隣に住む近所の方も同じような思いだ。「容子さんとはとても仲良しな友達でいつも一緒に畑仕事に行ったり、声をかけたりしてくれた。あんなにいい人が、日本人でも滅多におらんいい人が、なんでこんなことになるんか・・。早く容子さんを帰してください、お願いです・・」
佐渡島と言えば、朱鷺(トキ)を思いつく。篤志さんは私達をトキの森公園に連れて行ってくれた。もともと中国から渡って来たトキは、日本全国で生息していたが、一時期絶滅の危機に瀕し、今ではこの佐渡島でしか見られない。この日中友好の架け橋であるトキが、海の向こうの容子さんの帰りを待っているかのように眺めている気がした。檻の中で自由に羽ばたけないトキのように、容子さんが自由になれる日はいつになるだろう。
夕方海辺まで出かけ、海に沈む夕日を見ながら篤志さんに話を聞いた。「北朝鮮の拉致事件のように、20数年経ってからでは遅いのです。私のような者は何の力もなく、どうしてよいか分かりません。世界中で妻の救援を呼びかける活動が行われていると聞き、感動しました。マスコミの皆様のご協力により、妻のことを日本国民に知らせていただき、なんとか無事佐渡に帰って来れるよう、力を貸してください・・」と悲痛な胸の内を訴えた。
その晩泊まった宿のおかみさんは篤志さんの知り合いで、今回の容子さんのことについて話を聞いた後、協力の意を示してくれた。彼女はこれまで、政府関係やマスコミ関係の仕事に就いており、事情をよく知っている上に、知り合いにも伝えたいと言った。とても心強い協力者が現れた。宿は伝統ある造りで非常に心落ち着き、食事も豪華で美味しかった。次に羽茂町に来たときは、またここへお邪魔しようと決めた。
最後に佐渡の朝焼けを見届けた。朝日をじっと眺める篤志さんは、どんなことを考えていただろう。お母さんとおばあちゃんのところへお別れを言いに行った手土産に柿をたくさん持たせてくれた。最後におばあちゃんは、「容子さんが帰ってくるまで、生きて待っとるよ」と言ってくれた。私は涙をこらえて、しっかりと握手をした。そして船に乗り、帰途に着いた。
今回佐渡島へ行って、こんなにも美しい島からの悲痛な思いを受け止め、なんとしても、この家族のためにも、容子さんを一日も早く助けたい!!と強烈に感じた。そのために私達にできることは何であろうか。一人一人が力を合わせ、この日本と中国で生じた事件を平和的に解決し、真の友好関係を築きたい。今度私が佐渡へ行くときは、容子さんの帰還を歓んで祝うときであることを願う。
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