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第三者の論評: 法輪功についての考察

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【明慧ネット】私は中国に居たころは敬虔な仏教徒であった。西洋へ行ってからキリスト教やその他の西洋の宗教と触れ合うようになった。私は無神論者ではないと言うのが無難だろう。しかし私はまだ自分の道を選んでおらず、異なった宗教の間をさまよっている。法輪功をめぐる事件が展開した時、私は当然もっと知りたくなった。彼等のウエブサイトを読んでいたので、私は法輪功をよく知っている者と言える。悟性の問題により、私は彼等に加わることが出来ないでいる。今日は法輪功に関する私の考察を話したく、それがあなた方の役に立つことを望む。以下に法輪功に関し二通りの観点から話したい。

まず有神論的立場から話そう。法輪功の真髄である転法輪を読んで私が感じたのは、それは我々の物質世界のことを話しているのではなく、何か深淵なことについて話しているということである。多くの人がそれは仏教と道教から取ったものだと言うが、私は同意しない。だから以前掲載した発言で、私はウエブをサーフする人に言った。他の宗教を科学的観念をもって見ないと同様に、我々は法輪功を科学的観念をもって見るべきでない。転法輪の中で李洪志さんが自分の弟子(又は学習者と彼等は呼ぶ)に要求する道徳基準は大変高く、他の宗教について言えば、この点において比較できるものはない。李洪志さんの法輪功修煉における要求はとても厳格である。彼の要求に従わなければ、あなたは法輪功学習者と見做されない。道徳基準のレベルが修煉のレベルを示すということが、転法輪に明白に書かれている。他のどの宗教においてもそれは特に言われたことがない。だから私は彼が他の宗教から取り入れたとは思わない。他の宗教はただ単に道徳的基準を良くするよう言うだけで、それの修煉との関係については言わない。もちろん西洋の宗教においては修煉という考えはない。それらは、神を信じ、祈り、良い人であるよう要求するだけだ。しかし数人のキリスト教徒との付き合いにおける経験から、私はキリスト教も瞑想をするということを発見した。それはキリスト教も又修煉の一種であることを私に更に納得させた。私はウエブの読者に、法輪功に対し異なった意見をもつべきでないと言う為にこう言うのではない。多くの読者(私をも含む)は多分法輪功の信徒が、何故彼等の師父を至高の佛と見ているのか理解し難い。しかし、宗教の歴史を振り返って見ると、昔イエスが居た時、彼は大工の息子として現れた。彼が自分は神の子であると言った時、人々は信じられなかった。だから彼等は彼程の覚者を十字架に磔にしたのだ。釈迦牟尼が王子の身分で人々を生老病死から離脱させようと現れた時、彼も又否定的扱いを受け、バラモン教は彼の弟子を迫害した。この乱れた社会そして仏教が言う末法時期には、きっと覚者が人々を済度しようとやって来るはずだ。キリスト教は最後の審判の為に、イエスがこの世に戻ることを言う。仏教は未来佛、弥勒佛がこの世に来ると言う — あらゆる宗教の信徒は神が人類世界に戻ることを信じている。誰が本当の未来佛なのか判断するのは難しいが、私が神を信じるということが、人々と付き合う時私に善良な心を保つことを可能にする。もう一つ重要な事は、有神論者はあらゆることが因果関係をもつと考える。そうとすれば、法輪功のような大きな一件はもちろん偶然であるはずがない。法輪功学習者が迫害されていることにしても同様である。残酷な迫害事実は、実際人々の良心をテストするものと私は考える。神は人の心だけを見るのだから、何を信仰しているかにかかわらず、それが歴史的審判の為に最も有用な証拠となる。

次に私は法輪功について無神論者の立場から話したい。民主主義や法制について語る時、人々はそれらが社会問題解決の為の魔法であると信じる。しかし私はそうは思わない。道徳基準の向上が社会問題解決のカギである。人類社会の発展を見ると、法制は社会的道徳基準の衰えの産物であることが分かる。原始社会には法制はなかった。その代り人々が睦まじく暮せる約束や条件が人の道徳規範であった。人を懲戒する法を作ることを考えたのは、人が自制の為の道徳基準を失ってからであった。始めはそう多くの法律があったわけではない。多分一部の人は法律がますます完璧になってきていると思っている。私はこれは人間の道徳基準の更なる衰えの現れであると思う。類推すると、もしも皆が盗みが非道徳的行為であると思うなら、誰も盗まない。だから我々は盗みを制止する為の法を作る事は考えない。(実際私が幼かった頃は私の町では、人が道に忘れ去ったものを取らないのが普通であった)。盗みを罰する法を考えたのは、人が道徳基準を失って盗み行為が始まった後のことであった。西洋社会が近代歴史において、社会発展の先頭に立った理由は、人々が高い道徳基準を保っていたことにあると、私は思う。その様な高い基準が彼等の社会制度をより完全にするよう促進した。西洋に来た人は西洋人の善良さ、正直さ、社会に対する責任感を感じることと私は思う。法輪功がその学習者に、より高い道徳基準をもつよう要求する事実は、我々の社会にとって百利あって一害なしである。ある人は法輪功創立者がその信徒を利用して何かするのではないかと心配する。私は彼等は心配し過ぎだと思う。もしも彼の弟子達が道徳基準を彼の要求通りの高さにまで向上させる事ができるなら、誰もこの人達を社会を害することに利用することは決してできない。本題からそれた。法輪功の迫害についての話に戻ろう。まず法輪功に対する迫害は完全に違法である。中共政府がそれを合法化する新しい法律制度を作らせた後でさえ、それは信じられない程おかしなことである。法律とはこのようであることができるのか? 先に弾圧させてくれ、それから弾圧の法的根拠を成立させる為に新しい法を作るから。多くを言いたくない。私はこの迫害が中国にもたらした損傷の件に戻りたい。この迫害はウソをつき続けることを基礎にしている。例の一つとして自焚等がある。最近起きた衛星中継妨害事件は、明らかに人々の法輪功に対する嫌悪を煽動しようとしているのだ。メディアはこのように報道してよいのか? 妨害の源が台湾から来たと専門家が言ったというだけで、そして映像が法輪功の映像であったというだけで、法輪功の責任だと確かに言えるのか? 事実は、中国大陸に居る私の友人によると、映像は江沢民が国を売った事を暴露したのであって、法輪功とは関係なかった。台湾も又その源が台湾であることを否定している。国がこのようなことをする直接の影響として、人民にウソをつくことを奨励することになる。もしもあなたがそれについてウソをつかないなら、罰せられる。そのうちに国全体がウソで満ちる。人の誠実さは崩壊に瀕する。人々の信仰体系は完全に破壊される。法輪功の迫害は十分にこの方面を反映している。法輪功学習者が良い人であることを十分知りながら、警察は法輪功を止めさせる為に、又昇進したりもっとお金もうけする為に、良い人を拷問する。精神病の診断は信仰や宗教に基づくことはできないという、国際法はよく知られている。医学道徳を無視して、中国の医者は法輪功学習者を、法輪功を学習した結果気が変になったという言い分けを基に、精神病院へ送り、拷問する。学校はまだ独立した思考のできない、中学生や小学生を洗脳する。これら全ては人民の道徳的性質を破壊する以外何も成さない。

2002年10月21日