日本明慧

自己に向けて問う: 如何に堅固に大法修煉が出来るか?

大陸大法弟子筆

【明慧ネット】修煉で多くの困難に出逢った時、私は自分に聞いた。「どうすれば堅固に大法修煉が出来るか?」

1999年9月29日のことを思い出す。私は正々堂々と自分が法輪大法の修煉を続けていることを述べ、その為に拘置所へ送られた。鉄のドアと窓が私に自由を失ったことを告げた。ここは私の様な者が居るべき処なのか? ここがどうして善人が入るべき処だと言えるのか? 私は何も悪行を働かなかった。法輪功修煉を始めてから私は健康になり、人生の多くの揉め事が解決され、社会に多く貢献した。それ程多くの善人が迫害されるのは、実際間違っている。

拘置所に留置されている気分は良いものではない。夜眠りに落ちるのは難しかった。法輪大法の修煉をしていると、正々堂々と言うことに何か誤りがあったのかどうか、考え始めた。それでいて同時に私はここに居ると自由を失うだけでなく、職や社会的身分や家族等、長年の努力で獲得し、人から羨ましがられた全てを失うかもしれなかった。法輪大法は本当に一切を惜しむことなく、追求し探索するに値するのか? 冷静に考えている中に、大法修煉を始める前後の私の生活の一こま一こまが思い出された。大法修煉を始めた後、私は善は善の、悪は悪の報復を受けるという理を深く認識する様になり、心は浄化された。心は益々広くなり、名利や情の為に人と争ったり、人を欺いたりすることはもはやなく、この様なことの為に心を乱されたり思い入れたりすることに、時間を無駄にすることは無くなった。その代り数知れぬ揉め事や悪質な事件が解決した。人生は簡単になり、明白で調和のとれたものとなった。充実した人生を送る様になった。言行を真善忍の理に適合させ、益々高尚になり、ついには大覚者、佛、道、又は神となるべきであることを理解した。

一方、大法修煉をする前は、私は年をとり、知らずに重い病気にかかり、体力は目に見えて衰えた。健康と幸福は過去の美しい思い出となった。易学の研究も含む、西洋医学、漢方、あらゆる運動、様々な気功や、宗教は私の身体を根本的に変える助けにはならなかった。驚いたことに、法輪大法修煉だけが、私の健康は私の手中にあるということを分からせてくれた。私の身体は以前決して経験しなかった程軽く健康になった。更に私の友人、家族、そして私自身は、皆多少なりと他の空間における大法の真実と、美しくすばらしい情景を見た。これらの事は、大法修煉は正しく良いものであることを、十分に示した。考えれば考える程、私が間違っていなかったことを確信した。法輪大法は国と人民に恩恵をもたらし、それが正々堂々と修煉されるのは正しいことであった。

何度も考え立証した後、私は再び大法の揺るぎ無き信念を表明した。警察が私達一人一人を尋問したのは、二日目の朝であった。私と同じ年ごろの警察官が、私を尋問した時のことを思い出す。彼は私の身分を知った後、特に私が「大法修煉を続ける」と答えるのを聞いて、私をぽかんと見つめて何も記録しなかった。彼は書くのを止めて私に聞いた。「後悔しないか?」 私は大法を実証し、大法から如何に恩恵を蒙ったかを彼に話した。私が本当に後悔しないことを見てとって初めて、彼は「修煉を続ける」と書き留めた。その日私は自由を取り戻した。

後になって私は留置や病業や肉体的苦痛等、他の苦難を経験した。私は又も内心で大法の位置を考察した。「どうすれば心を動かさずに、堅固に大法修煉をすることが出来るか?」と自分に聞いた。過去数年以上の修煉を省みると、私は何度も危険な状態にあった。そして堅固に修煉を続け、自分の修煉における疑問に比較的うまく答えることが出来たので、その後又安全になった。非常な心身の苦痛に遭い、常人社会における全てを失う恐れや、意思に反して「修煉を止める」と言って釈放される可能性に直面し、私の心は静止した水の様に平和で、動かされることがなかった。驚くに足らず、大法は「柳暗花明又一村」の奇跡を私に示した。何度も正念と内面を見ることで関を通過した後、私は大法の修煉に揺るぎ無い決意を確立した。同時に私の体験が、大法は良いものであることを証明した。私はもう二度と自分に問う必要はないと思う。「何故なら皆さんが修めているのは宇宙の根本大法で、皆さんが正念を以って大法を証明し、巨大な難の中で圧倒されたことがないからです。」(弟子の偉大さ、精進要旨)

2002年12月25日