日本明慧

私達は正法の中で破られない全体にならなければならない

【明慧ネット】文/カナタ大法弟子

先生お元気ですか? 皆さんお元気ですか?
私は「迫害されている国内の親族を助ける救援活動」の修煉過程での体得を出して、同修者達の慈悲な指示を受けたいと思います。

私は2002年5月、トロントに来る前にはすっとシンガポールで修煉していました。今年7月からトロントの学修達は「国内で迫害を受けている親族を救援する」活動を始めまして、カナタ全社会に人権の悪漢江沢民が3年間という長期にわたって続いている法輪功学修者に対する迫害を制止し、監禁されている法輪功学修者達を釈放することを呼びかけていました。私の父と弟は不法に3回も拘禁されていました。一回目は父が錬功場所の連絡人だったことで、99年7・20に先ず捕まりました。二回目は他の地方の学修者に先生の新経文を伝えたことを職場の人に見つけられて捕まり、弟は大法のインターネットを見たことでした。三回目は父が2000年10月1日に天安門広場で「法輪大法は善い」と書かれた旗を広げたときに捕まり、弟は真相資料を北京で配って済南に帰ってすぐに捕まえられて、不法に労教3年の懲役をうけました。

1995年に帰国した時のことを今でも覚えています。その時両親は法を得たばかりで、私が家に入ってすぐ私に洪法をはじめました。私はお父さんとお母さんの変化を見て驚いて嬉しく思いました。お父さんの特有な芸術家の長髪も短くなっていましたし、顔色も赤くてつやつやになりましたし、以前家にあった色んな大きさの薬瓶もなくなっていました。私が95年の年初に出国する時に父は白なまずを得て、毎日多くの漢方薬を患部に塗っていました。その白なまずは医学的には根治出来ない皮膚病でした。年末に家に帰えって見ると修煉を通じて完治できていました。これは本当に不思議だと私は思いました。あの時私は家に一週間だけいて、すぐにシンガポールに帰りました。出発前に、父と母は私に大法の本と先生の済南での洪法録音テープを用意して、私がシンガポールに着いたら真面目に法を学ぶことを真剣に頼みました。その後、先生の新しい経文が発表されると、すぐ私に郵送してくれました。

1997年年初、私は再び帰国しました。その時、お父さんはすでに錬功場所の連絡人になっていました。私は毎朝両親と一緒に錬功場所に行って錬功をしました。父は毎朝決まった時間にテープ・レコーダを持って錬功場所に行きました。風が吹いても雨が降っても、吹雪の非常に寒い日でも関係なく、休まずに続けました。錬功場所の学修者達も彼のことでたいへん感心していました。家から錬功場所まで15分間掛かります。父はこの15分を利用して「転法輪」と「精進要旨」を暗記していました。父は毎日学法時も、先生の洪法録音を聞くときも座禅をして両手は結印をしていました。私は父が先生と大法に対しての尊敬の心に感心していました。父は又、自らの一生の追求と心血の──数千枚の油絵作品全てを山東省博物館と山東省美術展覧館に寄付していました。

その時錬功する新学修者は倍増し、毎朝一緒に錬功する功友が百名を超えていました。私の弟も97年半ばから始めていました。劉健(すでに迫害されて死に至った)もいつも私の家に来て交流していました。その時、弟はある撮影会社で働いていましたが、仕事が忙しいわりに利益は良く無かったです。弟は自ら進んで辞職して、仕事の機会を同僚に譲りました。その後、弟は同修者の会社で仕事するようになりました。99年度旧正月は父と弟がシンガポールに来て私と一緒に過ごしました。父は毎朝3.4時に起きて錬功を始めて、3、4時間座禅を組んでも大丈夫でした。毎日3講を学んでいました。父が言うには彼はこのように2年間続けたそうでした。父と弟が帰国しだ後間も無く4・25事件が起きました。私は新聞で見てすぐに電話を掛けて尋ねたら、父と弟は北京から帰ってきたばかりでした。その後から私は彼らに会えなくなりました。

7.20以後、私達はシンガポールで引き続き修煉しながら洪法と真相をはっきりと説明していました。国外の学修達が政府に呼びかけて、救出が成功出来ることを見て、非常に羨ましく思いました。シンガポールでいくつかの努力をして見たけれども、力不足であることを感じました。だから私はトロント「国内で迫害を受けている親族を救援する」グループに参加しました。表面から見ると、国内で迫害を受けている親族がいる学修者たけですが、実際には多くの学修者達が参加して、黙々と大量の仕事をしていました。例えば年寄りの学修者は観光地で、錬功場所で、路上で、地下鉄の駅で、国内で迫害を受けていた学修者達の写真を首に掛けて、観光客と民衆に向かって真相をはっきりと説明しながら署名を募集していました。こんな事を見るときの私の心には言え切れない感心が湧いてきました。国内の封鎖を突破して真相をはっきり説明するため電話、ファクス、インターネット等々の色んなやり方を使って監禁されている国内の親族、同僚と労動教養所に真相を説明していました。メディアグループの学修者は私達の活動に対してタイムリーに追跡して報道を行いました。私達がトロントの周辺の都市と町の政府に向かって真相をはっきり説明する車旅行をおこなう活動に対する支援を呼びかけるまでに、多くの学修者達の知られていない大量の仕事と手配を受けていました。各政府とメディアに電話を掛けて記者会を予約してましたし、車がある学修者は休みを利用して私たちを連れて行きましたし、時間を節約するため早めに路線を調べるため道上で苦労していましたし、翻訳グループの学修者は政府とメディアの郵便物と大法の真相資料などのすべてを翻訳してきちんと整理していました。全体の救援活動の中で、トロント学修者達の全体性を充分に体現していまいた。グループで学法して交流する時に、皆は心を開いて、誠に法理に従って交流して、共に法理を高めて共に高い認識に達成していました。

下記に私が自らの修煉体験を言おうと思います。先生は「北アメリカ五大湖地区交流会における講法」中で「国内にいても国外にいても皆一体を成しているのです。今度の出来事が起きた時、これをやる人も必要であり、あれをやる人も必要です。これが法に対する試練です。あなたがどこにいても、何をしても、あなたはやるべきことをやる時に自分を高めているのです。誰が何を担当するか、それなりの理由があります。」と言いました。私のお父さんと弟が中国で迫害を受けているのも偶然なことでは有りません。これらの迫害は全部旧勢力の手配ですので、私達は逆にそれを利用して真相をはっきりと説明して、邪悪を暴き出すべきだと思っていました。大法弟子として、毎日必ずしなければならないことは、学法、真相を確かにすること、そして正念を発する三つのことです。私は政府の官吏に対して国内で私の家族が受けている迫害の経歴を述べるときでも、学法、正念を発する、真相を確かにするこの3者は分割が出来ないことだと思っていました。

私の英語はよくなかったので、以前シンガポールでは主に中国語で洪法と真相説明をして、英語で大法の真相を言う時は少なかったです。しかしカナダではほとんど英語でした。特に政府とメディアに直面する時は必ず英語で言わなければならなかったのです。初めは慣れなくて、緊張して、上手に言えないことを恐れていましたが、その後私は此れらは人間の観念で有ることを認識していました。私は「求めなければ自然に得る」との純粋な心で私の家族が受けている迫害の自らの経歴を言いました。しかし発音と各面ではよくなかったですけれども相手はとても感動して涙を含んで、どのようにすれば私たちを助けることが出来るのかを尋ねていました。その他一緒に同伴する同修者の正念発することを組み合わせるのもとても重要で有ります。毎回異なる都市と町に行く時に、予約してあるときもしてないときも関わらず、できるだけ毎回の真相説明の機会を大切にしていましたし、いっしょに行っていた同修者が横で正念を発して、直ちに他の空間の妨害を取り除きました。相手が質問を出す時には、英語が上手な同修者ができるたけ丸く答えました。皆の組み合わせがとても合う時には、効果がとても良かったです。時には効果があまりよくなかったです。そのときには私達は帰って、皆が共に法に従って交流して、足りないところはすぐに直していました。

先生は「北ヨーロッパ法会の皆さん」の中で「社会で接触する全ての人は皆私たちが真相を伝える対象なのです。真相を伝えることから現れたのは大法弟子の慈悲と世人を救い済度することです。」と言いました。だから、私達が何処に行くのも関わらず、英文の真相資料を携帯して、途中のガソリンスタンド、あるいはレストランで、条件が許す情況で出会う人々に洪法と真相説明をしていました。

学修者達の共の努力とカナダ政府及び人民の正義ある呼びかけで、私の父と弟はそれぞれ2002年9月28日と10月23日に1年間の期限前に済南の劉長山労動教養所から釈放されて家に帰ることができました。私は父との電話を通して、父が大法に対して心から固く決めてあることを知って、心から彼のことに感心していました。弟は出てきた後、私に労動教養所の管教人達は自由アジアラジオ放送局が放送している私に対する取材を聴いていたと伝えていました。

私はカナダに行く前に、明慧ネットでカナダ政府が大法に対して多くの表彰と奨励を与えたことを見ていました。これはカナダにいる学修者達が本国の政府に対して真相説明を良くしていたことに間違いがないと思っていました。私がカナダ学修者達と修煉活動に参加する中で、一番深く感動を受けた事はカナダの学修達全体の凝集力と法理に合う率直で誠の交流と、お互いに励まし合って、チームワークが良くとれていることでした。