日本明慧

体得:「学習者之上」という心を廃除し、法に従って善を持って同修者と付き合う


文/アメリカ大法弟子(2002年フィラデルフィア法会での発表原稿)

【明慧ネット】

先生お元気ですか?

皆さんお元気ですか? 

先生は北米での巡回講法で、法を正す時期の大法弟子が必ずしなければならない三つのことについて述べましたが、先ずは法を良く学んで、己を修めることでした。私はいつも自分自身や同修者らの自己修煉の不足で邪悪な勢力に隙間を狙われて試練と邪魔をさせられ、本来なら良く出来る筈の事でも良く出来なくなることが多いのに気付きました。本当に自分を清め、大法に同化すればこそ、私達が対応している天体の無数の衆生が済度され、根本的に旧勢力の試練と妨害を打ち破り、より良く先生を助けて法を正すことが出来ると思います。次は私の感想を述べたいと思います。

1、「学習者之上」の心を廃除し、真面目に己を修める

一部の指導員或は調整役とその他の学習者の間にトラブルが起きて、正法の活動に影響を与えていると聞いていますが、私も余りうまく行きません。

99年度7・20以前の個人修煉時期には、案外落ち着いて、試練が有っても法に従って自ら原因を追求し、簡単に乗り越えることが出来ました。しかし、7.20以後には自分は他人より早く正法の仕事に取り掛かり、調整役を担当していましたので、当初は何と無く自分にはその資格が有ると思い込み、いつの間にか自分を「学習者之上に」置くようになり、自らは自分の法の学習不足に気付いているけれども、時々言い始めたら自分がもっと正しいと主張してしまいます。また、時には法に従って人を説得するのではなく、自分は指導員に調整人だということで自分の意見を他人に押さえ付けることも有りました。一時期は、「正法時期は正常な修煉時期と違って、大切なのは先ず仕事をすることであって、態度がちょっと悪い位は許して貰えるだろう」と思ったことも有りました。こんな誤った考えで、問題に遇った時には自ら原因を探すのではなく、自分に対しては甘かったのです。
一時期には、同修者達からの私に対する不満が多かったのです。それは私の言行がいつも役人のようで、自分の言うことだけが一番正しいと大きな話ばかりをしているとのことでした。最初は一人か二人しかいませんでしたが、最後は多くの人に同じ事を言われたのです。始めはあまり納得行きませんでした。「私にそんなことが有るのか?一体私のどの言葉、どの動作が役人に似ているのか?それはすべて彼のためで、皆の為では無かったのか。」としばらくとても興奮していましたが、落ち着いて自分の心理状態や遣り方及び態度を振り返ると、確かに問題が有るだけではなく、非常に深刻である事に気付きました。私は、「自分は先輩だ」という考えで「学習者之上」だという心が根強く隠れていることに気付きました。まさにこの心が、長い間私自身を官僚的にして、最後は他人から指摘されてもすぐ気付くことさえ出来ない状態まで陥らせたのです。家内に指摘されたとおりでした。「貴方は気付くはずないでしょう?!細胞の中まで官僚が染み込んでいるから。」

先生は、「責任者が背負っている仕事はいくら大きくても、いくら重要であっても、自分を修めることを忘れてはいけません。行った仕事がいくら多くても、大法弟子が大法の仕事を行うべきであり、常人が大法の仕事をしているのではありません。ですから必ず法を学ばなければなりません。責任者も実は普通の弟子です。全ての人は何を行っているにしても、自分を弟子の中に置き、必ず自分を弟子の中に置かなければなりません。」(米国フロリダ州での説法)「転法輪」の中で「入門した者は早い遅いにかかわらず、全員弟子です。」「修煉をやめて、名ばかりを残しても何の役に立つというのですか? 一期生とか、二期生とかいって……」

「学習者之上」の心と名義を求める心はしっかり繋がっています。この数年間法を正す中で、同修者達は自分の生れ付き才能・特技を充分利用して、色んな面で真相説明を行っていました。しかし、それが元々自分ではクリアされたつもりの名誉心を漏出させました。誰がどの方面でどんな特技があるか、誰がどの大学を卒業したのか、誰が常人の中でどんな役人でいるのか等等でした。

一方では大法の中で人材が多いことに喜びましたが、一方で、自らに常人の中での名義を重視している心が隠れていました。もし時機が熟しているなら、自らがある方面の人とは異なった所が有ることに対して、自慢の心が生じて「学習者之上」の心を産みやすくなります。

あれらのいわゆる「地位」がある学習者といっしょにいる時には私は気を付けることができて、言う時も緩やかになり、至っては謙虚に教えてもらうけれども、別のいくつか学習者に対しては態度が焦って、恨み言を言いやすくなってきました。例え法の原理での話でも割引をして聞くべきだと思っています。実はすべての弟子は主仏の前では皆公平で、同じく先生の無限な期待を託され偉大な使命を与えられているし、同様に主仏の限りない慈悲を浴びています。それは薄くも、厚くもないです。掘り出すことは心の中にある常人の等級の観念と俗世間の地位や財産に対する考えです。 

こんな純粋ではない心が、いくつかの肝心なときに法に従って同修者と公平に相談する事ができず、時には、自分の話がもっと量が高いにちがいないと思い、謙虚ではなかったです。もう一つは普段比較的尊敬している同修者に対しては、どんな言葉・計画でも聞き入れました。それでもっとよく行うべきなことが良くできなくなり、特に今度の10月の活動で出てきました。

実のところ、私は学法のときも、真相を確かに説明する時も、正念を発するときも関わらす、向上して払って行く程度が、同修者に比べて明らかに落ちていることに気付きました。多くの同修者は黙々と大量の仕事を行っていましたが、自らは只努力して先頭に追いついて獲得する程度で、本当は自慢することではなく、徹底的にすべての不潔な常人の心と観念を下に置いて、真面目に己を修めなければなかったです。

2.内から修めて、全体が向上していく

数日前には他の州に行っていくつかの活動を行う準備をしていました。行く前に、ある学習者の間にトラブルが起きていることを耳にしていました。そのとき思ったのは一つは法を正す活動を助けることと、もう一つは問題の解決を助ける微妙な顕示心理が現われていました。顔を合わせてから問題を見たとき、心が苦しくなりました。しかし苦しいあまりに、法に従わず、穏やかな心理状態での交流ができなくなりました。問題は、いくらでもある心の中での不公平と恨みを晴らすことでした。

ある学習者がある敏感な地区で真相を確かに説明する時に行ったことが過激でしたので、他の学習者が私に彼が大法の外形を破壊した感じがすると言いました。その他今度の法を正す活動にマイナス影響を与えたと、今度からは相手にする気持ちがないとの厳しい非難が満たされていました。私は両者を仲直りさせようと思って、もう一人の同修者に「先生は私達に、同修者に対して、洪大な寛容で、善意な理解で、慈悲で穏やかな心理状態で話すべきだといいました。」と何日間同じ言を何遍も言いました。でも最後の日の電話で怒気、不満を持っていらいらしながら言ったのに気付きました。電話を置いて突然この話は1枚の鏡みたいに私自身を照らしている感じがしました。私はこの同修者に寛容であったのか?善意で理解出来ていったのか?言葉が穏やかだったのか?先生は「二人の間に矛盾が発生した時、第三者が見て、自らが何が有るのではないかと考えている。」と言いました。(「オーストラリアでの講法」)この時私はこの数日に見た他の同修者の問題を思い出して、あれらの問題は自分の身にも自分の地域にも存在しているし、只程度が異なっているたけであることに気付きました。

内に向いて探すことが出来ないと、謙虚になれないし、同修者に対して穏やかに話ことが出来ないので、そこでいくら高い道理を言っているにも関わらず効果はよくないのです。だから根本的に皆が内の向いて探すひとつの環境を作り、全体が心性を高めて行けば根本的に問題を解決することが出来ると思います。以前は常にこの責任者はこの問題があるし、あの責任者はあの問題があるけれども自分は修煉が良く出来て有ると思っていました。

その後、自分が責任を持って行う時には、完全に同じ問題を起したことも有ったし、もっと酷い時も有ったことに気付きました。

それから私は深く感じました。他の人の欠点を見る時、きっと自らを見て、今度の戒めにして、己は大丈夫だと喜ぶことはいけないのです。それは自分の執着が現れる機会がなかったたけの可能性があるからです。

3.「法を師とし」、寛容で、理解が出来る、善で同修者に対する

以前の同修者との論争を振り替えて見ると、表面上では皆大法のためですが、深く自ら探して見ると自分の不潔な心残りを掘り出すことができます。只根本的に法を先に置いて、自己を取り除けば、もっと寛容になり、理解出来た上、善で同修者に対応することが出来て、ようやく本当に大法のためになります。

私がいつも辛抱出来ないことは集団活動の時に乱れている場面を見る時と、構わずに出て来て処理することでした。その中で大法のために思う心はもちろん良いですが、純粋じゃない心があるときは効果が良くないのです。今度メキシコのAPEC会議の時に、学習者達は横断幕を作って、正念を発するとき、酷暑たったので、いくつかの学習者はできるだけ数本の樹の下に集中して坐っているので、場面は整然では無かったです。私は大法に対して責任を負っている、皆が大法弟子の姿を表すべきだと再三考えた上、立ち上がって処理すると思っていました。私は大声で1本の樹の下にいるいくつかの学習者に整然と並んで座って欲しいと言いました。1人の学習者が「外は日当たりが凄いので、また午後も座らなければならないので、体力を保存するべきだと思うけど」と言いました。

私は「私達は法を正すために来た、中国の弟子は歩行で千里を歩いて北京に行っている、此れくらいの苦しみはなんでもない。」と言いました。道理は間違いなかったですが、私の心の中は恨みが満たされて、言うことは穏やかではなかったです。すぐに二人の西洋の学習者が私に助言してくれました。「心を込めて話で下さい」その中の一人が言いました。「私は貴方のような独裁的な言い方は好きじゃない」

私は頭を突然打たれたように、気が付いて、すぐ帰って謝りました。そうです、先生は前から語気、善心と道理を言っていました。法に責任を背負っていると言いながら、この近い距離の正念発する時に、各国に向いて法輪功を展示する肝心な時に、自分の態度がよくなくて論争を起した場合に、気持ちに影響を与えた場合、誰が一番喜ぶのでしょうか?悪魔が一番喜びます。此れで法に対して責任を背負っていると思うのでしょうか? 同時に私は皆が自ら進んでこの活動に参加しているし、一部の学習者は3、4日間昼も夜も正念を発していたのです。もし私が他の人のために考えるようになっているなら、自らもあんな態度は取らなかったはずです。

もう一つは、寛容で、理解することでした。法に従うには同修者が自分の問題を指摘するときの態度にも関わっています。あるときある同修者が重要な活動の準備をしている私と何人かの同修者の計画が足りなく、考えが全面的ではなく、重点を捕まえてないと厳しく批判していました。かれが言っていることが正しと思いましたが、彼の態度が気になって、心からは抵抗感が出てきて、穏やかな気持ちで相談出来なかったので、行うことがもっと良く出来なかったです。振り返って見ると自らの「体面に拘る」心が、思うことも言いたいことも強烈で、自らは傷つけられたくない、寛容ではなかったので、同修者の良い面も理解出来なくて、自己を下ろしたのではなく、本当に大法のために、相手の話が大法に有利ではないかを考えて無かったのです。

邪悪の勢力は同修者間の調和が良く出来てない隙間を狙って邪魔していますので、気を付けなければ罠に掛かリますので、自らに対して厳しく要求する時には、取り除くことが難しくないと思います。近頃この問題に気を付けてから、何度も同修者の良くない態度とぶつかりました。もし前の私だったら心性を守らなくて、間違いなく争論して、それで邪魔されているのが自然になったかもしれません。でも今回は、すぐに相手の角度から相手のたくさんの良い所を思いだすたびに、頭の中からマイナス思考があっという間に消えていって、発生するはずだった論争が免れて、邪悪の手配と妨害から自然に抜けることが出来て、行うことも損失を受けなくなりました。

先生はフィラデルフィアでの講法の中で「彼らは他の神から出された方法の最終結果がどのようなものなのかをまず見るのです。」「到達する結果を見て、本当に達成したいところまで達成することができれば、それに同意します。神はこのように考えています。」(2002年米国フィラデルフィア法会での説法)私がかつて思っていたのは、もし相手の意見が私が達成しょうとする効果に達しなかったと思った時にそれをどうするのか?でした。今理解出来たのは、同修者と意見が合わなくて争論が起きた場合に、皆は相手の間違いをとらえて、自分の正しい部分を強調しているし、自らの執着心から出発して、それにブラス自分の想像を推測していることです。実は皆が言うことの全てに正しい部分と間違い部分が含まれています。例え皆が反対に、人の良い所を見つけて、自らの間違い所を探して、人のために大法のために誠に考えるなら、皆が穏やかな雰囲気の中で長所を取り入れ短所を補って最もよい方法を探し出すと思います。どんな膠着した局面に遇っても、皆がこのように考えることが出来るなら、それは仏陀と先生が喜ぶことで、悪魔が喜ぶことではないです。小さな事で恐縮に思う時は、法を正す偉大な使命を背負っていることを考え、一本の木の屑と一つのストーブの溶鋼を思い出し、一粒のほこりと大空の天体を思い出して下さい。

4.いつも厳しく要求して、小さいことから修めて行く

いくつかの法を正す活動の準備の中で私が体得したことは、法を正す事が大きい程、邪魔が大きいです。邪悪は学習者の隙間を狙って、学習者の心から手をつけます。もし一人或は多数の学習者がある方面で争論に陥って、正念が生じてない時に、局外者ははっきり見えていますが、時には手を束ねてなす所を知らないのです。問題が一つ又一つと発生し始めるときには、一刻も猶予できないことで、一つの難を乗り越えないと、引き続いて難が出てきます。本当に地道な修煉基礎が無ければ、肝心な時根本的に仏念を念じることが出来ないのです。確かな基礎はふだん地道な努力とほんのちょっぴりのことでも逃がさなくて修めることです。

テストを重視しないひとは、試験もうまくいかなくなり、大きい試験を受けることができなくなります。

私はこの2、3年に確かに5、6年前と比べて自らに対する要求が厳しくなかったです。例えば、最初は人の短所は言わないで、出来るたけ口を修めていましたが、この2年頃は、大法の仕事で同修者と相談する以外にも有る時には、特に矛盾に遇った時には、裏で議論し、納得出来ない感じがある時には、落ち着かなくて、客観的に、他の人の角度から言うのではなく、色んな恨みを持って、不満を言いましたのでその時は複雑なマイナス心理でした。「転法輪」の「口を修める」を読むときはいつも「私は本当に駄目ね、先生が言ったこのことのほとんどが出来無い」といいながら、次は又自分の口を修めるに把握的なかったです。「明慧ネット」に発表していた「ある女子大学生の法を正す道」で言ったことが私に深い印象を残していました。「私達全ての人の任務は(粘着剤)の作用をだすことで、粒子と粒子の間のひび割れを埋めて、私達を金のように破られない粒子の団になることです。」私達の言っていることにはエネルギーが有りますし、思いも全部物質です。ふだん口を修めないなら「粘着剤」の作用ができなくなります。他のことをやるときも自分に甘くなります。こんなことは自己修煉での小さい事にみられています。多くの法を正すように規模が雄大な活動を行うことには異なっているけれども、先生が言った通りに「常人の心さえあれば、それは魔に利用され得るところです。自分が気をつけなければ、随時に利用されてしまう恐れがあります。」(2002年度ボストン法会での説法)小さいことから修めて行かないと、長い間積み重なって、肝心なときに直接に、法を正す活動に深刻な影響を与えますので、根本的に邪悪な勢力の妨害を破壊して捨てなければならないのです。そのようにやるにはふだんから必ずしっかりと正念を発する同時に厳しく自分を修めて、小さな事から始めることです。

以上は、只私が近頃の僅かな体得です。修めるところが多過ぎるし、同じ問題が何回も繰りかえして出て来ていました。もうし適切な所、或は今度修煉の中で気を付けなければならない問題について皆の慈悲の指摘をお願いします。

先生有難う御座います。

皆さん有難う御座います。