日本明慧

人、良い人、修煉する人


文/大法弟子

[明慧ネット]修煉過程において、自分は多くの大法同修と同じ問題にぶつかったことがあります、それはつまり「家庭関」です。身内の人とか親戚は邪悪な迫害の中で、ある程度迫害を受け、関わり合いになったため修煉者に恨みを晴らし、反発する気持ちまで生じ、自分は受身の立場に落ちてしまいました。

私の個人の体験は、大法弟子の一員として、まず社会の一員であり、物事を行う時常人的な言行規範に合わなければなりません。この上で常人中の良い人となり、人々から見れば、常人中に現れると「真実、善良、度量がある」ことである。師父が法で教えてくれたように「どんな環境の中でも人には親切にしなければならず、まして自分の身内のものの場合はなおさらです。親だろうと子供だろうと誰に対しても同じように、何事につけてまず人のことを優先に考えるならば、それはもはや私心ではなく、慈悲心によるもので、慈悲そのものです。」(「転法輪」)いつも自分の親戚、友達のことに関心を持ち、真実に無私に彼らのことを考え、自分が法の中から悟った理で彼らの生活中や仕事中の問題を出来るだけ解決して上げ、自分の正言正信で、一挙一動で周囲のすべての人に、すべての事に影響すると、このようにする威力は非常に大きいです。多くの場合、私達は実際に心を尽くすことは出来ますが「したいのはやまやまだが、実力が伴わない」ですが、常人も私達の真実と善意を感じられます。

家庭に不正な情況が現れ、特に大法に反発する意気が現れた時、すぐに正念を発して邪魔を取り除き、真相を伝えることは非常に必要であり、しかも必ずやるべきです。正念を発すると外来の悪いものを徹底に整理することができ、道理を言うと人の不正な思想を正すことが出来ます。その一方、一人の修煉者として、私達は自分の内に向かって求め、自分がどこに良く修煉できてないかを見て、自身から原因を捜すべきです。一部の同修は家庭では外より自分の言行に注意せず、身内の人の前では自分にしっかり要求しないです。それは漏れがあり、それを修めて捨て去るべきです。

師父は「出家弟子としての原則」の文で指摘しましたが「弟子の皆さん、世俗の全てを放棄することについて、在家弟子にとって少しずつ取り除いていく執着ですが、出家弟子にとってはまずしなければならないことで、出家の基準でもあります。」では、法を正す過程が今まで来て、家にある弟子も世間、家庭に対する情と執着を必ず真剣に修め去る時期になったと私は思います。情に対する執着を取り除くことこそが、心よりどこにでも家人に親切に対処でき、それは自分の心はすでに無私であり、博大な慈悲で満たしているからです。

私達が本当にこのようにする時,師父がお話した「煉功を続けて、われわれの心性の要求に基づいて修煉すれば、だんだんと、あなたのエネルギーも強くなるはずです。」、「悪い心の持ち主が歪んだことを考える時、あなたの場の強烈な作用を受けて、その考えを変え、悪いことを考えなくなるかも知れません。人を罵ろうと思う者も、急に考えを変えて、やめたりします。ただ正法修煉のエネルギー場だけが、このような役割を果たすことができます。」(「転法輪」)修煉者の非常に正しいエネルギー場は知らず知らずに周囲のすべてを変えることが出来ます。私達が本当に修煉者の基準に達した時、私達が修煉して慈悲心が出た時、私達が本当に「慈悲善念」で周囲の全てを対処する時、たくさんの事情がすでに変わっていることを発現され、周囲の環境がすでに良くなり、家庭の不調和の要素がなくなり、取って代わったのは美しい、和やかでしょう。ほとんどの家庭の情況はこのようであると言えます。