日本明慧

法を第一に置く


英国大法弟子筆

【明慧ネット】最近私は毎日法の勉強をしたり、煉功したり、正念を発するには忙し過ぎる。だから私の心性問題は益々顕著になって来ている。その問題に気付くこともあるが、改める意志がない。問題に出逢うと私の心性は落ちる。ある日冷静に師父の最近の説法「2002フィラデルフィア法会における説法」と「精進要旨」を繰り返し読んだ。そして虚栄心への執着が自分の内面を見ることを妨げており、私が向上するのを出来なくしているのに気付いた。

実際大法の為のどんな仕事をしていようと、大法弟子が除去すべき執着を隠す為に、表面的に「私は大法に責任がある」と言うことは出来ない。この道理は明白であるが、行動を取る時になると、問題を避けられない。これを悟ることは、実はより個人的なことを強調し、否応なしに法を第二に置くことになる。私自身を例にすると; 始めに自分の意見に執着した。表面的には私は何も言わなかったが、内心「他の人のアイデアは私の程良くない」と考えた。更に悪い事には、私は内心奥深くでは、「これは法の角度から見た意見だ」、又「一体としての効果に影響させることは出来ない」と弁解した。後になって私は自分の間違いに気付き、思いきってそれを認めたが、心中穏やかではなかった。心中のより奥深くを見ると、それは虚栄心への執着である。以前剥き出しになった私の執着に、誰か気付いた人が居るだろうか。今になって考えて見ると、それは本当におかしなことだと感じる。その頃私の心はいつも封鎖されており、大法のことをすっかり忘れてしまっていたのだ。「自分が何であるか、自分がどうであるか」という様な考えでいっぱいであった。自分がどんなに多くの執着を持つかに気付き、私はすぐに法の勉強をし、良くない思想、業力、悪い観念、及び外部からの邪魔を除去するために、正念を発した。そうすると私の心はもっと穏やかになり、以前感じていた圧力を感じなくなった。私は正しい路を歩き、全体的に向上することを考え始めた。

その後同修と話し合った時、彼が如何に毎晩パートの仕事を終えた後、多くの大法の仕事をしなければならないかを聞き、私は涙が溢れた。私は以前他の人に不満であった。しかし私自身は良く行なったのだろうか? そして私は思った。「最近同修はどうしてお互いに不満を抱いているのだろう? 私達は皆まず自分を見るべきだ」。私達は良い関係をもっており、お互いの欠点を指摘するのを躊躇しているのだと、私は感じた。或いは私達は同修が良く修煉出来ており、自分で分かるだろうと感じているのかもしれない。その場合私は自分の内面を見るだけだ。実は他の人の欠点を指摘する時、自分の内面を見るのは矛盾しない。もちろん私達は自分の内面をまず見、自分の欠点を認識する必要がある。しかし他の人がある次元に留まっている時、その理由が分かるなら、彼らの向上を助ける為に、告げることをしないことがあるだろうか? 私達に現れる悪い観念と業力は、相通じているということに気付いた。邪悪はそれをはっきりと見、厳しく迫害する。たった一人が正念に欠けているだけでも、邪悪は諦めない。しかしながら師父は、旧勢力を認めず、彼らの按配を受け入れてはならないことを度々強調した。これは大法弟子が一体を成すことを要求する。全ての学習者が自分の前に相手を置き、同修に対しもっと好意的で、欠点を見つければ蔭で言わず、正直に告げるなら、旧勢力は同修を迫害するどんな理由を見つけることが出来るだろうか? 法を正す仕事は、より効果的にすれば、より容易く、より早くなされ、私達の心性も向上する。

これらの困難や問題に出逢った時、始めの頃は私はあまり関与したくなかった。それは大法や同修や自分に対し無責任であった。私達が衆生を救い、邪悪を除去し、身体の悪い物質を絶えず除去し、同時に一人の覚者としての威徳を築き上げる機会が、如何に何度も繰り返し按配されたかを、私は考えて見るべきであると思う。これらの騙された衆生のことを考えて見るべきである。急いで彼らを救うべきではないか? 私達は同門の弟子であり、法を正す路を共に歩く。私達はお互いを助け合い、より良く行なうべきである。

以上は私個人の悟りである。慈悲をもって間違いを指摘し、正して戴きたい。

2003年2月3日