日本明慧

               私の二つの体験

 /大陸大法弟子

 【明慧ネット】同修に比べれば大きな隔たりがありますので、体験を書きたくありませんでした。しかし、「もしあなたの経験をとっくに知っていたら、私には全く問題が起きませんでした」と同修に言われました。修煉は法理によって指導します。これは最も根本的ですが、同修の間での実修実例を交流するのもアドバイスになります。この同修の激励と催促で書くことにしました。

1.邪悪にコントロールされた人に「修煉するかしないか」と聞かれた場合の悟り

旧勢力に按排された人に「修煉するかしないか」と聞かれた時、昔は躊躇せずに自信を持って「修煉する」と答えるのは完全に正しいと思いました。しかし、理は絶えずに昇華するものです。絶えずに法を勉強する中に「修煉する」と答えるのは漏れがあるということを発現しました。師父は北アメリカ五大湖地区交流会における説法で「宇宙の生命は皆位置を配置し直されています。人にこの大法を試す資格がありません。神にもありません。あえて試した人がいたら、それがその人の罪です。このことも彼らには分かっています。」と言いました(「導航」)。彼らは大法弟子の正面の答えを得る資格がないと私は悟りました。「修煉する」と答えると、邪悪のものに大法を試練させるのと等しく、彼らの迫害を認めるのと等しくなり、それでは彼らは法を正すことを妨害するのに参加します。彼らもそれに従って損害を受けます。

上司に「修煉するかしないか」と聞かれたことがありました、私は頭の中に上述の師父の法がふっと思い出しまして、私は話を変えて答えました。「あなたはxx党への信仰を信じると言ったり、信じないと言ったりしますか?!このような人間になるのはいけないですか?」彼は一語も言えませんでした。彼らは私に保証書を書くように要求し、それは上級からの要求だと言いました。私は「私は一番優秀な公民です。私は書きません、書いたらあなた達は今後私の安全を保証できますか?!あなた達のやり方を私はすでに見破りました。保証書と言うものは人が悪いことをした後書くものです。私達は正々堂々の公民なので、どうして私は書かなくてはいけないですか、あなた達は書いてほしがるのは、あなた達自分が犯人であることを認めるのと同じではないですか!更に誰が書いても悪い報いを受けると言うことを私は知っていますので、私が書かないだけではなく、あなた達までも書いてはいけません。」

保証書を書かないと「洗脳班」に送ると言いふらした。「誰か私のうぶ毛一つ触れれば、その人は悪い報いを受け、家族まで損害を受けます。」と私は言いました。彼らは「私達もやむをえないからです、もしあなたが私の立場になったらどうしますか?」と聞かれたとき、「私はこの問題をすでに答えたと思います、私はどんな人かあなた達も知っているでしょう。」と答えました。

事が終った後、どうしてこのような問題が起きるのかと自分に聞きました、自分は上司を良いと思い、常人の名誉を求めたため、邪悪が隙に乗じました。現在私はいわゆる「正しく答えた」と思っているのが、邪悪が再びこの問題を聞く要素ではないかと悟っています。

注意してあげたいのは、この文章を読んだ同修達は「修煉するかしないか」と聞かれたら答える話があったと想像しないでください。これはまた旧勢力に隙に乗じられて、それに「試練」される恐れがあります。

 .法を正す時期において常人の仕事に対する体験

「労働矯正所」の満期になる直前に、上司に「釈放されてからまた宣伝しますか?」と聞かれて、「宣伝します」と答えました。次回彼は再びこの問題を聞きました。前回この問題について完璧に答えられなかったと私は悟りました。真相を伝えるのと彼らが言っている宣伝は本質的には異なるものです。でも私は宣伝しないとは答えられません。私は必ず法に基づいて答え、しかも大法に円融するのが最も適切だと悟りました。私が宣伝すると答えれば、勤務先は私を受け入れることができません。彼は畢竟常人です。しかし、私は勤務先に戻って勤めるのが正しいことです。師父は「大法は円融である」の経文の中で次のようにおっしゃいました。「安定した仕事は、修煉者が衣食のことや生存のことを心配せず、修煉と落ち着いて法を広めること、及び真相を伝え、世の人々を救い済度することを怠らないようにすることができます。社会の各業種の中で修煉することができ、また法を得るのを待っている縁のある人もいます。」

苦しいあまりに私は多くの同修とこの問題について交流しました、具体的にどのように答えれば良いなのでしょうか。ある同修はこのように答えれば良いではないかと言いました「何を言うべきで何を言うべきではないかをしっかり自制できます。」この話を聞いて私は師父が「転法輪」(修口)の一節で「何を言うべきで何を言うべきではないかをしっかり自制できればけっこうです。」と講じたことが思い出しました。

私は師父の洪大な慈悲と大法弟子の集団の智恵は限りないということを感じました。個人の体験ですが、不当なところがあればご慈悲に指摘してくださるようお願いします。