日本明慧

金子容子さんの救援について

文/小雨

【明慧ネット】容子さんが去年5月24日に不法監禁されてから、もう9ヶ月が経とうとしている。時間があまりにも長くなっており、本当に長すぎた。容子さんがまだ迫害を受けていると思うと、同じ学習者として、わたしは法の上で交流する必要があると考えた。それとともに、学習者たち、特に日本の学習者たちに法の上で自分を高めることを希望している。以下の数点から原因を見つけたいと思います。

一.古い考え方を認めた

容子さんが不法に監禁されてから、みんなはあちこちへと動き、国会でも超党派連盟が設立され、アムネスティ・インターナショナルも容子さんを救援呼びかけリストに入れたし、外務省もまじめに協力し救援したいといっており、議員の署名が200に、国民の署名も10数万になっているのに、なぜいまだに救出できていないだろう。それは私たち学習者が変異した考えを認め、また「仕方がない」という考えに関係していると思う。

古い考え方のその一は、容子さんは中国旅券を所持しており、中国でどうなっても中国のことであり、日本と関係ない、ということである。実は中国は既に国連の人権条約に合意し、守る義務がある。違反すると、あらゆる国が批判および阻止する権利、および義務がある。ただチラシを配っただけで、一年半の懲役が言い渡されたということを、あらゆる法輪功学習者に対して実施するのも中国憲法を違反することとなり、国連の人権条約を違反することになるのだ。容子さんは数万の迫害されている法輪功学習者の一人に過ぎない。この迫害は人性を踏み潰し、人類の本質である道徳を攻撃することである。あらゆる人がそれに反対すべきだ。積極的に金子容子さんを救援することは邪悪を阻止、正義を広げることとなる。日本政府や政治家たちも例外ではないのだ。
しかも、容子さんに対する迫害は、家庭で正常に暮らす環境を壊したのだ。新潟県にある容子さんの家に行ったことのある学習者もいる。容子さんがいないことで柿が成熟していても、採る人がいなくてそのまま畑で腐敗してしまい、容子さんが監禁されているから、義理のお母さんやおばあさんがショックにより、身体状況が悪くなる一方で、もういつも清潔であった家ではなくなった[1]。ひとつの日本の家庭が真善忍を信仰したためにこのような情況に直面しなければならないのに、日本政府は黙っていられるはずもないだろう?

古い考えのその二は、中国に内政干渉といわれるのを怖がり、だから手を出してはいけない、ということである。自分の国民の妻がほかの国で違法なことをしていないのに、不法的に監禁されたら、理を持って人の釈放を要求するのは当然のことだ。政府は自分の国民の権利を保護する義務があるのだ。他人に内政干渉と批判するのは少数の人が自分の非道な行為を隠す道具に過ぎないのだ。実は、よく知られているように、中国政府の一部の人は他国の内政への干渉を止めたこともなかった。たとえば、ある都市が法輪功を表彰しようとしたら、政治ピエロが阻止しにいった。民主国家を訪問すると、その国の国民が黄色のTシャツも着られなくなった。71歳の香港の老人がビルマで横断幕を広げただけで、7年の懲役を言い渡された。例はあげきれないほどあるのだ。

われわれは大法学習者であり、このような変異した考えを認めてはいけない。必ず、心のそこから否定し、拒否すべきである。議員との付き合いの長い学習者が、知らないうちにこのような変異を認めてしまい、どうしようもないという気持ちが現れてきた。このような枠の中に閉じ込められ、突破することができなかったら、旧勢力につれられるようになり、いくら努力しても効果があまり現れてこないのだ。

二.金子容子さんの救援と大法の真相を伝えることを分けること

金子容子さんの救援と大法の真相を伝えることは基本的に一つのことである。容子さんを救援し、それとともに国民の善の心を起こし、法を正す中で正確に彼らの位置を決めてもらう。しかし、救援活動の中で両者を自覚しないうちに分けてすると真相を伝える仕事もうまくいかなかったりする。たとえば、呼びかけている過程で、救出をあまり希望してない様子を見せ、または洪法するのを急ぎすぎると結果的に相手に反感を買うこととなり、容子を救援しているのでなく、法輪功を宣伝しているだけだと勘違いされることもある。あるときに逆の極端に行ってしまうこともある。大法に言及せず、常人がわかってくれないのではないかと考え、再び執着になる。容子さんを救援したいが、大法はわかりたくないという人を目にすると失望を感じる人もいる。実はそんな必要がないのだ。法には異なる次元あり、善にも異なる次元がある。一人が善の考えで署名しまたは救援活動に参加していれば、それだけでも自分の将来の位置を選んだのだ。もちろん、直接大法を支持したらもっといいのである。わたしの考えでは、われわれは大きな寛容、理性、知恵、慈悲を持ち、本当に人々を救おう。以下に示す法会の内容はわれわれがこの問題を処理するに当たって、直接的に指導作用があるだろう。「宣伝および問題を解釈するときには、相手の大法に対する理解や受け入れ能力に基づき、適切に大法を広げよう。」(「法輪大法義解」)

三.英才思想、待ちながら傍観

日本社会は表面的な文化を重視しており、たとえば、議員や記者などの地位のある人々と会話するときに敬語を使い、お辞儀、名刺を渡すときに適切におこなうと人に好感をもたらしやすい。それで一部の学習者は「待つ」という考えが現れてきた。多くの大きな洪法活動はよくおこなうことができるが、しかし、地位のある人を対象とするときに、少ない日本語のうまい学習者に任せ、ほかの学習者は待つだけとなる。ほかの学習者がしたくても時には大きな障害があるのだ。たとえば、あるマスコミが客観的でない報道をしたとき、みんなが行きたかった。私の第一念は、「某学習者は行かないほうがいい、そのアルバイトで使う日本語で説明するのは失礼だから。」というものであった。しかし結果的に、その学習者が行くことになり、効果もよかった。また、わたしの日本語はそんなにうまくないが、しかし学習者に励まされて、ある日雑誌の出版社に電話をした。その日に、4社に電話し、2社が資料請求となった。そのほかの2社が面会してくれた。その中の一人の編集者は彼に順調に会えるように熱心にもロビーの受付で使う日本語を教えてくれた。その後、日本語のできる学習者と一緒に面会に行き、一時間近くも話し合った。自分もそれで元気つけられた。しかし、数日後にマスコミに洪法する気のある学習者10数人が集まり、電話予約を練習した。わたしの番では下手な日本語が大笑いを誘った。常人の心が出てきて、自分の日本語はだめだ、ほかに人に任せようと思い始めた。それから半年、電話ひとつもかけることがなかった。しかし、自分も知っているが、本当にわたしを阻止しているのは日本語能力でなく、個人の執着であり、師父の言われたとおりに主動的におこなっていないためである。今になってもこのような待ちながら傍観する考えがある程度存在している。この考えも容子さんの救出を阻害する要因のひとつと感じている。これらの阻害を突破しないと法を正すステップについていくこともできない。われわれが個人修錬の中の阻害を突破し、お互いに励ましあい、一緒に精進しよう。

四.強度不足

一人の学習者が議員に呼びかけたときに、あなたたちが本当に容子さんを救出する決心があれば、わたしも力になりたいと言われた。彼が手伝ってくれたかどうかを別にして、わたしは本当に全力で呼びかけたのかとわたしは自分の心に問いでみた。しかし、頭を下げるしかなかった。一人の学習者が言ったように、今はどんなに努力しても、将来はまだやり足りていなかったと思う。しかも、本当にまだ努力が足りないと思っている。喜び安心できることに、東京の学習者たちがこの間一緒に法を学び、交流したときにみなはもっと精進して、早めに容子さんを救出するようと認識している。

もちろん、その中にも旧勢力の働きや大法学習者への試練の要素もあるだろうが、それはわれわれが全面的に否定するものであり、それに旧勢力もわれわれを試す資格がないのだ。「師父からの新年の挨拶」からの文で学習者の皆さんと励まし合おう。「残った道のりにおいて、神の正しい信念と正しい行いで、皆さんが先史の時に立てた大いなる願いを圓満させましょう。」

以上は個人の悟りであり、不当なところ、学習者の皆さんが慈悲で教えてください。