牡丹江市第二留置所の警察は女性の大法弟子に対して
残酷な体罰と性的ないやがらせを行った
文/大陸大法弟子
【明慧ネット】私は牡丹江市の大法弟子である。真相資料の作成に協力したことによって、2002年12月に不法に牡丹江市第二留置所に監禁されていた。
留置所の所長劉進群は他の看守と一緒に女性の大法弟子を体罰した時、大法弟子のズボンを抜いて行った。私は鉄道留置所に監禁されている時からすでに水も食事も絶っていて、第二留置所に移ってからも引き続き水と食事を絶食し続けた。それで連中たちは私の両足を手錠で固定し、農塩水を胃の中に注入した。胃が日に焼かれるように苦しかった。これを私は毎日注入され、毎日体罰され、尋問されていた。ある日、西安公安分局の警察王偉は私を尋問した時、体が傷だらけになるまで暴行した後、私の衣服を解いて乳房を触った。私が意識を失っている間に私の指を使って他人の書類の上に指紋を取られた。私は目が覚めてから、屈服しないと表明すると、彼は私を摂氏零下30度の外に投げ出して凍死させると言った。
私は1998年の末に法を得て、身心ともに受益がたくさんあった。迫害が始まってから、1999年7月20日に私は電車で北京へ法を正すことに行った。北京で滞在した20日間の間に、私は自らの目で北京の警察により全国から北京に来た大法弟子及び一般市民が迫害された事実を見た。
1999年8月に私が牡丹江市に帰った後、住民委員会の書記は私が北京へ陳情に行ったことを知り、毎日家に来て“保証書”を書き、信仰を放棄することを私に強要した。家に置いている大法書籍と録音、録画のテープ及び師父の写真は陽明警察所の警察張溢涛に没収された。脅迫の下で主人が書類にサインした。住民委員会の書記は私に北京へ陳情に行かない保証書を書くことを要求し、書かなければ、住民委員会の責任者やその地域を管理する警察及びその上役の職が失われると言った。私は情に動かされ、不本意にその要求を受けた。だがこれは江氏集団の私に対する迫害の始まりに過ぎなかった。私は警察の張溢涛に理由なしに陽明警察所に連行され、また法輪功を修煉し続くかどうかと聞かれ、修煉し続けば、労働教養所に送致すると脅され、そのまま一日監禁された。
2000年の春節の間に住民委員会の人と警察は我が家に7回もやってきて、嫌がらせ、脅かし、嚇しなどで、我が家族全員に巨大な圧力をかけた。
2000年7月に牡丹江市全域に大掛かりな捜査、逮捕を行っていた。私はまた警察に逮捕され警察所に連行され、両手を後ろに手錠をかけられて20時間に及んで一晩体罰された。翌日警察所長李偉は私を釈放する時、二日以内に引っ越して戸籍を彼たちの管理区域から転出するように強要した。我が一家は安定な住居がなくなり、転々と家を借りて住むことを強いられた。
2000年9月29日に私は再び北京へ陳情に行った。10月1日に私は天安門広場で警察が大法弟子を殴っていることを見て、前に出て警察と論弁し、制止しようとしたが、その場で私は不法に連行され、牡丹江市の第二留置所にいれられて294日に及んで監禁された。私のような無実の大法弟子が監禁された例はまだたくさんある。我々は心身ともに大きな障害を受けた。その後、私は絶食して迫害に抗議した。数日後、命が危なくなったところで、2001年7月23日に無条件釈放された。10ヶ月近くの迫害の中で、私は大法に不利な言葉を一つも言わなかったし、“真、善、忍”の信仰を貫いてきた。その上に平和、理性の方式で上層の管理者に手紙を書いて我々の遭遇を述べた。
2002年8月9日に私は大法の真相資料を作成したことによって、牡丹江市公安局及びその所属の四つの分局は連名して私を指名手配した。私は3ヶ月間流離生活を強いられた。警察は私を捕まらないから、主人を陽明警察所に連行して一日監禁した。同時に息子の通う小学校の前で息子を捕らえて私の行き先を尋問した。子供の心に大きな障害を残した。警察はまた姉の店に待ち伏せて私を捕まえようとした。親族にも大きな不安を与えた。
2002年11月28日に私は黒竜江省大慶市で逮捕された。同時に逮捕されたのは葉蓮萍さん(すでに迫害によって亡くなった)等三人がいった。28日の夜、牡丹江市政保科の警察は私と葉蓮萍さんをジープの天井に手錠をかけて、立つことも座ることもできない姿勢を取らされ、手錠が肉の中に組み込んだが私たちはこのまま牡丹江市へ連れ帰られた。当日の夜に、葉蓮萍さんは“芥子の油”を飲まされた後、ビニール袋で頭を包んで体罰された。私は警察の喬平に箒の棒で体を満遍なく殴られた。体は傷だらけになり顔の筋肉が痙攣した。痛みから痺れに変わり、最後に感覚が無くなった。その後、私一人を車に乗せて牡丹江市鉄道の留置所に入れた。私は4日間連続水と食事を絶って睡眠をせずに迫害を抗議した。看守は無残に私を殴り、皮靴を履いて数え切れないほど私を蹴った。手錠を前に掛けたり、後ろに掛けたりして、4日間虐待した後、私は市の公安局に連れ帰られた。
2002年12月の初め、私は不法に牡丹江市第二留置所に入れられた。毎日体罰を受け、尋問されていた。西安公安分局の警察王偉は私を尋問した時、暴行によって私は意識を失った。翌日にまた私を尋問に来た。連中は私がもう生きる希望がないと見て、また留置所で死んでほしくないし、その上私の家族が毎日市の公安局に私を釈放することを要求に行っているので、2002年12月の中旬に私は再度釈放された。だが姉は警察の強要の下で保証書にサインした。もし私が何か警察に不都合と思われることをしたら、姉が連行されることになる。私は捕まってから釈放されるまでの半月の間に、警察に言うべきではないことを一つも言わなかった。私は固く迫害に抵抗し、正念で警察を正視した。監房の中で私は法を暗誦し、洪法し、正念を発した。私の全力を尽くして平和と理性の方式及び正念正行で宇宙の大法を護り続けてきた。
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