日本明慧


「2003年旧正月15日米国西部法会での説法」を読んでの感想

文/河北の学習者

【明慧ネット】新経文を読んで一つ認識を新たにすることができました。常に「大法のために役立て、大法のために仕事を行い、師父のために仕事を行い、大法を発揚させるために」と言い、世の中で師父を手伝うために、自分が非常に偉いと思っていました。実はそうではなく、全ては、自分のためであるということが分かりました。現在行っている三つの仕事の中で、真相を伝えることは自分の世界を円満するためであり、正念を発することは自分の悪い認識や自分の精進を阻む邪悪を除き去るためであり、法を学ぶことは自分が一日も早く大法に同化し、その標準に達するためです。この三つの仕事は、実は全て自分のために行い、師父のためではなく、大法のためでもありません。本当に慈悲かつ偉大なのは師父です。わたしたちの慈悲は、ただわたしたち以下の生命に対する慈悲であり、自分より高い生命に対しては、わたしたちは慈悲の能力がなく、何一つすることは出来ません。

わたしたちは、師父が救い上げてくれたもので、選んでくれた生命であり、最大の努力を尽くして、すべき全てを成しても、師父が選んでくれたことに背かないということに過ぎません。経文「弟子の偉大さ」を読む時、自分が本当に非常に「偉大」と感じたことを振り返って見ると、本当に恥ずかしいかぎりです。

わたしが、コンピュータでいくつかのグラフィックスを作り出したとしても、この画像は自分自身と比べれば、全く性質が異なる物体であり、生命とは言えません。従って、わたしが、これらの画像を自由に選択し、どのように選択しても、それは正しいと言えるでしょう。わたしは、これらを自由に削除したり、保存したりすることができますが、この選択については、画像自体はどうこうする権利はありません。師父とわたしたちの関係は、わたしとこの画像との関係の様なものではないでしょうか。もちろん、この表現は適切とは言い難いものです。画像はわたし自身が作りましたが、わたしたちの生命は、師父が作った低い次元の生命が、更に低い次元の生命を作り出し、さらに低い次元の生命が、更に低い次元の生命を作り出し、この様に各次元の生命ができ、最後はわたしたちまで来たということでしょう。しかも、わたしが画像を描くよりももっと簡単で、高い次元にいる生命の一念により、わたしの生命ができたことでしょうし、完全に異なることでしょう。高い次元にいる生命に比べれば、わたしたちは恐らく宇宙中の一粒の埃にしか過ぎないことと思います。

このような状況の下で、わたしたちは修煉しており、自分を浄化しなければならず、個人の認識や観念を改めていき、宇宙を汚すことなく、師父がわたしたちを「選択」してくれたことに「円容」していかなければならないと思います。わたしの理解ですが、わたしたちの立場から、資質を向上させ、師父の選択に合わせることであり(あくまでも現時点の個人の認識です)、これがわたしたちの最大の善念ではないかと思います。そのようにしていけば、他の生命や他の神は、わたしたちの修煉に対して、最も良い方法を出され、師父の要望を変動することなく、師父の説法によりその方法を「円容」すれば、わたしたちはより良正となり、これは他の生命や他の神の善念ではないかと思います。