日本明慧

人々により詳しく真実を説くべきであります

2003年3月14日/河北大法学習者作

【明慧ネット】 大法が迫害を受けてもう早4年が経ちます。人々の法に対する認識のレベルに応じて、彼達の未来に於ける自分の位置づけが決まります。一大法学習者としてどのような基準を持って人々に対して評定判断をするのでしょうか。特に自分の家族や親戚友人に対してです。私は個人の認識を以下の通り述べ、学習者の皆さんと交流させてもらいたいと思います。

私の夫を例にしてみます。私は法輪功を修煉してから心身ともに受益したことと、私はよく彼に大法について話しをしたことで、彼は法輪功が健康増進によいものであること、そして、大法学習者の皆さんは良い人であることを知っていて、大法についてある程度の認識を持っています。他の学習者が訪ねてくる時はよくおもてなしをしてくれるし、迫害された大法学習者たちにも同情します。しかし、恐怖心を抱いているため、よく私達に「家の中で法を学び、煉功をすればよいのだ、国家に対抗しないで、トラブルを引き起こさないで、邪悪に捕まらないように」と言い聞かされます。他の学習者は「あなたの夫はなかなかですね。私達のことを同情すると言える人は良いひとです。彼にはきっといい将来があります。」とよく私に話します。

この見解について、私は異なる認識を持っています。私にしてみれば、このような良い人は、私達に同情するのみに過ぎず、邪悪に対しては耐えて我慢し、無理を受けて忍び、正義のために立ち上がり公正の一言も発せないことは、知らない内に邪悪を放任し容認することになります。逆に親族友人全員が私達と共に邪悪を制止することになって、特に不法監禁された大法学習者たちの親族友人が「罰金」、「保証金」を支払わずに、保証書やサインを提出せずに、ご馳走をしたり、物を贈ったりせずにしていれば、邪悪は虚に乗ずることも出来ずに、最後は自滅するのではないでしょうか?

表面上では、自分の家族や親族が一日も早く釈放して欲しいがために、彼達は一年間に亘り、日夜辛苦に汗を掻き、働き得たお金を仕方なく邪悪の徒らに渡し、泣き崩れて仕方なく修煉のことで受難した家族や親族の代わりに「保証書」を書きました。無理を受け忍び、無理やりに作った笑顔で家族や親族を迫害する公安局の悪党警察を豪華レストランにてご馳走をします。自分の良心に背き、家族や親族の代わりにサインをしたのです。実質上は邪悪に従順し、邪悪を容認し、邪悪を助長し、邪悪に機会を与えたことになります。ならば、彼達はいい事をしたのでしょうか?それとも悪いことをしたのでしょうか?仮に彼達は罪を償う機会があっても、このような大きいな過ちを犯した後に彼達の身に現れる災難は計りきれません。

一大法学習者として、更なる法理に沿ってこの問題を認識すべきです。法理に従い、彼達の行いを評定判断し、彼達に要求すべきです。より詳しく真実を説き、彼達の理解が深まることに連れ思想の向上が出来ます。

それに、大法学習者の思いや意思はエネルギーを持つもので、人々に対して制約力があります。彼達が持っている状態は実は、私達の思いがそうさせた場合もあります。私達は家族が自分に家の中で法を学ばせてくれて、煉功させてくれることを嬉しく思い、満足を感じることに留まってしまえば、この古い観念を取り除かない限り、家族も又このレベルに留まらされることになるのではないでしょうか?私達の思想のレベルを向上させなければ、彼達はどう変えられるのでしょうか?又、衆生を済度する角度からみても、彼達は邪悪を容認することから邪悪を制止することに変えられることは、彼達にとっては更なる済度となるのではないでしょうか?

勿論、法を正す時期に当たる人々は、法に対して善の念を持っているのであれば、希望のある未来になりましょう。しかし、私達は彼達にしっかりと真実を知ってもらうことによって、新たな嘘や偽りに騙されたり、動揺したりすることにならなければ、彼達が済度される機会は二度と失わないことが保証出来ます。

最後に、師父の経文「淘」を一緒に復習しましょう。

天地がひっくりかえ崩れて砂塵が舞い落ちる
俗世に数億もの命を毒害する
慈悲による済度は計り知れず
中原に新しい墓が続々と出る

不適切な箇所があれば、是非ご指摘ください。