日本明慧


電子メールの送受信から正念正行を見る

2003年3月28日 文/アメリカの大法弟子

【明慧ネット】電子メールは現在よく利用されている通信手段である。法を正す進行の推進にしたがって、大法弟子が担当している真相説明の仕事は益々多くなっている。複数の電子メールアドレスを持っている学習者は少なくない。送受信の時間の大幅な増加により、学習者の間のメールを見なくなった人は増えてきた。よって学習者の間の情報交流が影響され、甚だしい時に誤解を招くこともある(例えば送信者は受信者がメールを見てないことを知らずに、反応がなければ、送信内容に興味がないと思う時も)。これについて、私はいくつかの意見を述べてみたい。

電子メールの利便性が交流の主な方法になっている。学習者は一体になるために、情報交流がスムーズにできなければ行けない。このためにメールのやり取りを欠かさず、且つできるだけ速やかに閲覧し、対応するべきである(自分とあまり関係がないメールを善意に再送信されないように断れば良い)。実は静かにメールをやり取りの過程の中に我々の修煉状態と正念正行の程度を現している。以前、学習者からのメールを受け取った時、私は思わず気に入らないところを気づき、遂に不満と文句が心の中に湧いてくる。特に忙しくて見る暇もなく苛々している時、不善な念頭も湧いてくる。

やっとある日に、これらの不善な考え方がどれほど危害を生じ、どのような場を生じることかに気づいた私は何とも言えない悔しい気持ちになった。そしてすぐ心からの変化があった。今どんなに不完全と思うメールを受け取っても、私はすべて善と寛容な心で対応でき、常に他の学習者が大法のために善意に行った一切を感謝するし、励ましてあげたい。以前のような不満の心が再び出てきたことはない。一時意味不明な、或いは自分とあまり関係がないメールであっても、私もそれなりの働きができるように心から祈る。メール中の呼びかけや建議に対して、例えすぐ参加、応じることができなくても、私も心の中に正念を発して協力する。多分多くの学習者は私のような考え方の変化過程があったかもしれない。

メールをやり取りする時、正念を持つ以外に正行の面にもたくさん気をつけるべきところがある。例えば言葉の選択や表現の方法などの面に受信者の文化背景及び法に対する理解程度などのことに我々は考慮しているかどうか。特に受信者が常人である場合に我々はこれらのことに気をつけているかどうか。同時に文字の表現にはできるだけ平和的に、正確に簡潔に気をつけているかどうか。文章の作成能力と外国語のレベルを常に高めようとしているかどうか。毎通のメールに全体的に大法弟子の正々堂々な形象を現しているかどうか。他にもう一つ注意すべきことは電子メールの秘密を完全に守ることができず、第三者(例えば電子メールサービス提供者、或いは政府の安全部門)はメールの内容を保存したり、検査したりすることがあるので、メールを発送する時に大法の形象を護ることに考慮すべきであり、我々の言葉使いにより、常人に理解できない、疑わしい、抵抗感などの気持ちを生じさせないように気をつけるべきである。

多くの学習者は様々な真相説明のことを行っている。もし電子メールのような日常的に静かに行っていることの中で修煉者が達すべき基準に達さなかったら、やはり漏れがある。且つ毎日漏れている。電子メールの送受信を真剣に行っていない学習者はこれから気をつけるべきである。何時でも大法弟子の正念正行を徹するべきである。 

個人の悟りで、間違ったところを慈悲で指摘してほしい。