私が北京留置所に監禁された時の見聞
2003年3月26日文/遼寧大法弟子
【明慧ネット】2000年の末、私は法を正すために北京へ行った。しかし駅についたらすぐに、拉致され派出所へ送られた。持っていたお金は警察に没収された。夜、私は非常に寒い部屋に閉じ込められ、トイレへ行く自由も奪われた。一昼夜後、私はまた警察の拘留所へ入れられた。
拘留所では、私は同じ大法学習者が虐待される有様を目撃した。拘留所に入れられた翌日、劉淑琴さんという学習者は眠くて眠くて目を開けることすらできなかった。ここで暴力を受けたのかと訊ねたら、彼女は背中を見せてくれた。首から尻まで殴られた傷跡が一面に広がっていた。その後、また七、八人が送られてきた。その中の三人は傷ついていた。高晶さんは手が上げられなくなり、劉徳英さんは脳震盪になっていた。
数日後、ある夫人が送られてきた。彼女は経文を一枚持っていたのを警察に知られて遼東県公安局に拉致されたのである。そこで、彼女は拷問により体中傷だらけになり、正常な皮膚も見られなくなった。警察が彼女を監禁室に入れた時、他の囚人に誰かズボンあったら出してやれと言った。と言うのは、彼女があまりにひどく拷問されたため、大小便もすでに失禁してズボンの中にいっぱい洩らしてしまったからである。彼女は尻をひどく殴られたため座ることもできなかったし、横になることもできなかった。背中と胸あたりは紫色に変色し、左目が殴られて真っ黒になり、突き出ていて目だとはなかなか見えなかった。
ある日、五名の大法弟子がいっしょに入れられてきた。その中に、眼鏡をかけている上品で礼儀正しい十九歳の娘がいた。しかし、県の公安局で、彼女は警察にビンタを張られていた。ある警察は、「見て分からないように、顔を殴らないで、針で刺してやろう」と提案し、そして、肩から手先まで続けて刺した。両手を刺してから、今度はまた背中の脊椎を刺した。警察は刺しながら「これは人間じゃないぜ、反応が一切ないから」と罵った。しかし、腰のところを刺された時、彼女は一度ぶるっと震えた。警察はまた「完全に麻痺していない」とまた罵った。そのため、このわずか十九歳の若い娘の手や顔などには針に刺された跡がいっぱい残った。人間性をすっかり失った警察は少女の顔を血が出るほど刺しているのである。
張平さんという学習者がいた。陳情のために北京へ行ったため、拘留所に入れられたのである。彼女は口当たりに血腫がいっぱい残っていた。何故と訊ねたら、彼女は北京で電気ショックされたためだといった。その他にまだどこを電気ショックされたかと訊かれたら、彼女は、「主に口と陰部でした」と言った。
ある王氏の大法学習者は、北京から来たが、彼女の話によると、彼女を殴ったのはいずれも十六、七歳くらいの若者で、彼らは殴りながら「お前らは真・善・忍を修めているだろう、まだ忍耐するか、まだ忍耐するか」と罵った。また、あるものは、「お前に白状してやろう、俺らは江××の手先だよ!」と叫んだ。江××はどれほどの無辜の国民を迫害したのであろう。このような若者でも彼の暴力を行なう棍棒になってしまい、地獄の深淵に引きずられていったのである。
以上は、私が拘留所で一ヶ月監禁された間に、目撃または訊いたことである。その後、労働強制所に送られたが、身体検査で不合格のため、家に帰らされた。家に帰った後も、派出所の警察をはじめ、勤め先の者がよく家に嫌がらせに来られていた。分局の警察がまた一度自宅を捜査し、私のラジカセ、テープ、大法の本などを没収した上、私もまたしばらく監禁された。
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