日本明慧


大法を学んだ警官が警察大学によい気風を樹立した

2003年3月27日

【明慧ネット】私は、かつて武装警察大学の警官であった。98年から法輪大法を学び始めた。
その頃、軍隊の中では人脈関係を築くために食事に招待したり、贈り物を贈ったりするようなことが多かった。しかし、自分もその中の一員でもあった。社会の気風が急激に落ちて、道徳が乱れているその中において、法輪大法の「真・善・忍」は私の道徳と思想を向上させた。昔、同僚とペアになって仕事した時、私はいつも自分の権限が彼に奪いとられたと思って不平不満になっていた。しかし、大法を学んでから、私はこの名利心を放下し、仕事を正しい位置に回復するようになった。私は、警官になるのは好く仕事をし、社会に貢献するためであって、権力闘争のためではないと思った。自分の心を正しく位置付けてから、二人の仕事は好く、調和的になり、スムーズに運ぶようになった。それと同時に、彼は私に対する意見や文句も一切なくなった。そして、警官として武装警察大学での人望も高まってきた。習慣では、休みになり旧正月を過ごすためにその間に帰省した大学生たちは、大学に帰る際に必ず大学の教官達にお土産をもって帰ることがあった。それで、大学の良好な気風を樹立するために、私は会議を開いた時に、次のように言った。「今回の旧正月を過ごしてから学校に返る時、大学生の誰でも大学の教官にお土産を贈るなどのようなことを一切禁止します。私は皆さんの長として、あなた達に如何にして人がなすことを教えるべきで、あなた達に如何にして賄賂をするかを教え得ないです。私は、あなた達にここで一つの浄土を開いてあげなければなりません」。それで、旧正月後になると、確実にお土産を贈る風習が止んだ。大学の風紀が正しく、よい方向へと変えられていった。

卒業生を送ってから、新しい学生がまた入ってきた。その新入生たちの贈り物はこれまでかつてなかったほど大きかった。ある人は、直接に私にお金を送呈した。しかし、私は1銭もとらず、いずれもその人の名義で貯金しておいた。ある地方の局長の息子がうちの大学に入った。その時、彼が贈り物をしたが、私は断った。私は「われわれの大学は人材を育てるところで、そのようなことをしてはいけません。貴方の息子は、私が責任をもって教育しますから、そのことはご放念ください。貴方のお土産は受け取れませんが、お気持だけをお受け取りします」と言った。それで、彼はお土産を受領しなければ、ぜひお昼を一緒にしたいと言われたが、私はそれでもご遠慮くださいと謝絶した。すると、彼は不安になりだし、「先生は、どこのご幹部の方ですか、何故このように誠実で私心がないのですか。××党の幹部は賄賂を受け取らないなどのような者はいないではありませんか?」と言った。私のことは、彼にすればきわめて不思議なことのようであった。その後、私は自分が法輪大法を修煉し、「真・善・忍」に沿ってよい人になろうとしているからだ、と解釈した。彼はそれで始めて納得できた。
しかし、私が仕事に励んでいた時期に、この法輪大法への邪悪な弾圧が始まった。上司は私を呼んで法輪功、「真・善・忍」を放棄しろ、そうでなければ地方に復員することになると言われた。私は法輪大法を修煉しているからこそ正しい行いをすることができ、思想や道徳を昇華させ、何時でも何処でも好い人になし得るのだ、しかも、修煉の為に仕事に影響をもたらしたことは少しも無かった。それなのに、またどうしてこの私に無理な要求を出したのかと、上司に説明した。すると、上司は「これは上の意思だ」と言った。それで、99年8月に、私はやむをえず地方に復員させられた。その後、陳情のために北京に行ったため、不法に三年間の労働矯正をさせられた。ある市の労働矯正所で、私は日々虐待を強いられた。自分の信仰に背かない限り、殴られ重刑をうけ、ファッショよりも残忍であった。私の心身ともに重い傷ができた。

世の中の人々よ、この理を評してみて下さい。この世の中では、公正と道義はまだあるのか? よい人になること自身が罪となるのか? 私が陳情のために北京に行ったのは何の罪があるのか? 不正に取扱われている国民がその不平を言うことは許されるべきものではないか。私が、ただ「真・善・忍」を信仰するだけで、これほど苦労をさせられるのだ。私は、世の人々が私の生の体験を通して、正義と邪悪を見き分け、心の中の善良な念を喚起するように望みたいものである。