日本明慧


江沢民政権による迫害により我が家は崩壊した

2003年3月25日 文/河北の学習者

【明慧ネット】私は98年7月から法輪功の修煉をはじめました。間もなくいくつか有った病気は無くなり、その後無病状態となり、体は大変軽く感じるようになりました。また、トラブルの絶えなかった家庭内が、数ヶ月という短い期間で穏やかになり、家族の間に笑みがこぼれるようになりました。かつての生きる希望を失った生活が嘘のように、新たな人生をもたらしてくれました。大法は、良い人になることを目指すこと、正しい道の歩み方、善良と真・善・忍を教えてくれました。そして、これまでになかった幸福感と生きる楽しさを感じることができました。

99年7月20日、江沢民政権による弾圧がはじまりました。その日の午後、何人もの人が城関鎮の鎮長である常二鎖氏の家へ連れて来られ、テレビを見ること、そして「保証書」を書くことを強制されていました。また、夜9時までに「保証書」を書かなければ、派出所に連行すると恐喝されました。派出所の警官数人が自宅を包囲した後、踏み込んできて、師父の法像2枚を持ち去りました。親友らは、私が連行されることを心配して、「保証書」を書くよう勧めましたが、結局派出所に連行され、留置場に入れられました。翌日になると、意識不明になるまで、手錠をかけて吊るされました。市役所の職員までも“煉功はまだ続けるのかね”と聞いてきました。三日目になると、法輪功を中傷するテレビ番組を見なければならないと脅されました。労働矯正を言い渡されることを恐れている親戚たちが、私に「保証書」を書かせるため、家に来て大騒ぎになりました。各種の圧力による強制の下、本心に背き「保証書」を書いた結果、釈放されました。帰宅後、良心が咎めました。大法の本を見ながら涙を流しに流しました。

2000年5月15日、大法のために政府へ本当のことを言わなければならないと、良心が目覚め、北京行きの汽車に乗りました。北京の上申所に着いたとたん逮捕されてしまいました。北京連絡所に一時監禁され、その日の午後、地元の派出所に戻されることになりました。地元の派出所に入れられるなり、所持品は屋根の上に投げ上げられ、トイレに行くことも禁止されました。その後、留置場に入れられ、暴行を受けました。5月17日の朝、煉功したところ、それを目にした副所長の李鋼氏は怒り、他の受刑者に対しても、罵声を浴びせ暴力をふるいました。更に手錠を掛けて木に吊されました。その様な折り、主人が面会に来ました。主人は、涙を浮べながら妥協することを私に勧めました。家屋を売るということが条件になったとしても、救出しなければならないと言ってくました。しかし、私は否定しました。真・善・忍を放棄することは二度としませんし、本心に背いて「保証書」を書くことも、二度としませんと伝えました。その日の午後、警察は再び私を木に吊るしました。その日の内に法律を無視して、私たちを看守所に入れ15日間に渡って拘留しました。

看守所において、座禅し煉功したため、副所長の解美麗氏から皮靴の靴底で、顔や頭を両側から叩くという虐待を受けました。また、手錠を掛けられたままで、走り回ることを強いられ、飛行機運転(拷問の一種)とか、手を後ろに回されて手錠を掛けるなどの暴行を、15時間に渡って受けました。私を救い出すためには、家族が保釈金を払うことを条件とされました。半月後のある日、派出所の付愛忠氏と常二鎖氏二人により、看守所の前に引きずられてきました。そこで、釈放する条件として、1,000元を要求されました。それに抗議するために、私は絶食に入りました。すると、鎮役所にいれられました。そこの役人は、私をからかったり、けなしたり、いじめました。常二鎖氏は“旦那と離婚させてやるから、戸籍を実家に戻してやる”と言いふらしていました。お金を払わないため、再び派出所に戻されることになりました。絶食による抗議が、六日目に入った日、一人の親戚が“彼女を釈放しないのは、飢え死にさせようとしているのか?”と諫めました。親戚による正義の手助けにより、私は解放されました。

7月のある日、城関鎮からやってきた数人の人に、自宅を包囲されました。“二日ぐらいで帰れる”と、家族を騙し役場に連れていかれました。そこで7日に渡って絶食をもって抗議したにもかかわらず、やはり看守所に入れられ、1ヶ月間拘留されることになりました。法律を無視され看守所に拉致されたのは、これで2回目となりました。私は犯罪者ではないので、受刑者規則の暗記を拒否しました。女性看守長の杜濱氏は、酷く罵り残忍に私の顔を殴りました。しかも、足枷をかせられた上に、廊下を走るよう強いられたため、足の皮が擦り剥けました。所長の張魏閣氏に顔面をひどく叩かれましたが、目の前はちらつき、頭の中がもうろうとし、長時間はっきりとした意識が戻りませんでした。何日にも渡って足枷をかせられたままでした。この迫害を拒むために、10日間絶食した結果、強制的に食物を流しこまれました。一方、この10日間でも、毎日のように苦役を強いられました。1ヶ月後、再び派出所へ移送されました。私に代わって、母が「保証書」を書いたため釈放されました。

帰宅後2日目、家で煉功している最中に、李鋼氏が何人もの人を連れて、無断で家に押し入り、立ち入り検査をしました。そして、一冊の《転法輪》と煉功テープを持ち去りました。城関鎮の鎮長である梁という人に“鎮の幹部があなたに話しがある”と言われ、役場に行ったところ連行されました。その行為に抗議するために、絶食をはじめました。すると、鎮の新任幹部であり、法輪功取締りの責任者でもある徐氏は“食事を食べなくても困ることはない。食べさせるのに、いろいろな方法がある。ベッドに縛り付けてやれ”と言いました。その後、懲役3年の判決を言い渡されるという噂を耳にしました。しかし、3ヶ月近く派出所に監禁されることになりました。結局、役場に移されることになり、弟が「保証書」を書き、更に1,000元を払うことを条件に釈放されました。

師走の28日、街へ年越し用品を買いに行きました。すると、派出所の警官が同じバスに乗っており、下車するやいなや、尋問されました。そして、警官は派出所へ報告の電話をしました。更に、デパートまで尾行し、そこで、デパートの警備員に私を捕まえるように指示しました。結局、派出所に監禁されることになりました。私が街へ行った目的を調べるために、家族まで取り調べを受けました。買い物のために、街へ行ったという目的が明らかになってからも、強引に連行されました。私の強い帰宅の要求により、解放させてくれました。警官は“街へ行く前に、なぜ事前に派出所へ断らないのか?”と咎めました。

師走の30日、我が家に混乱を引き起こすために、派出所の政治指導員がやって来ました。さすがに家族も “他の人の家は、正月の喜びに包まれ、賑やかで、浮かれた気分でおり、良い年を迎えたいというのに、我が家は正月でも派出所の指導を受けるなんて…”と腹を立てました。

2001年の正月後、2月24日前後のことでしたが、警察はあらゆる法輪功修煉の人を洗脳クラスに監禁し、洗脳を行うことになりました。「保証書」を書かない限り釈放せず、宣伝用ビデオの中で、大法を貶さないと監禁し、罰金を課します。やむを得ず、私は家を離れ、路上で生活をするようになりました。私の行方が分からないために、祖父が代わりに監禁されました。何回も家族は“いかにしても捕らえなければならない”と脅かされました。しかし、その後は“帰宅すれば逮捕も監禁もしないことを保証する”と家族を騙しました。私の帰宅後の翌日“この数日間は、どこにも行かないように”と電話がありました。すると30分もしないうちに、大勢の人によって、家は包囲されていました。ちょうどその折りに、祖父が電話をかけてきてくれ“今回は、間違えなく捕まえるそうだ。しかも、また絶食抗議をしたならば、死んでも自殺として処理するそうだ”と伝えてくれました。このような事実の前で、主人は江沢民氏らによる詐欺を見抜き、本当に目が覚めたようでした。家族と親切な隣近所の協力の下で、私は家を脱出することに成功しました。家を離れるや否や、玄関のドアが破られました。ところが、私が見つからないため、主人に対して気が狂ったかのように恫喝したそうです。

2日後、主人がやってきて、一緒に食事をしました。すると主人は“たくさん食べて…これは私たちの最後の食事となるかもしれない。君は狙われており、もうここには居られない。ここを去って、遠く離れた広州に行った方がいい。明日の11時の汽車に乗りたまえ。服や靴などの準備はもう済んだが、お金がどうしても不足で…これからは自分のことは自分でするしかなくなる。家のことが気になったら電話をすれば…”主人は涙を浮べ、多くの言葉を出すことが出来ませんでした。たくさんのご馳走を前にしても、とても喉を通りませんでした。

それからというものは、私は身を落ち着けるところも無く、他郷にさまよい、既に2年あまりが経ちました。江沢民政権による迫害によって、我が家は崩壊してしまいました。