情と理について
2003年4月15日 文/大法弟子
【明慧ネット】修煉する人は人間社会の情ではなく、法理で物事を考えるのです。常人は感情で物事を考えるのです。ですから、愛があれば、憎しみもあります。相手のことが良いと思う時、その相手のことが好きでたまらないのです。しかし、その相手と意見が違ったりすると、すぐその人のことが憎くてたまらなくなるのです。自分の親友であれ、或いは肉親であれ、一つの意見や少しの利益のために、直ちにお互いが敵になることもあります。これは情の局限性です。情は利己的なものです。しかも、愛と憎しみは同じ根から芽生えてきたものです。愛は自分の情を満たすために喜ぶと言う一種の情で、一方、憎しみは自分の情が満たされなかったための怒りというものです。それは、すべて他人のためではなく、自分の情が満たされるためのものです。従って、利己的であります。
法理から、私たちは自分の好き嫌いで、人や物事を講じるべきではなく、却って、法理で物事の良し悪しを判断すべきです。そうして始めて、他人に対して公正に扱うことが出来るのです。人間は善良で正義感を持つべきで、相手が自分の親友であっても、或いは、あまり知らない人であっても、やさしく対処すべきです。修煉者として、相手の考え方が自分の観念や基準と一致するかどうかは関係なく、更に人に対して優しく対処しなければなりません。法理に基づいて、私たちは真に相手に対して優しく対処出来るのです。と言うのは、私たちは何をすべきか、何をすべきでないかが解かっているからです。情から人に対処する時は、自分の気分が良い時、その人に対して優しくするが、気分が良くない時、態度が悪くなるということがあります。ですから修煉において、真に相手に対して優しく対処するためには、情を捨ててどのように法理で自分を律するかが常に講じられるのです。
真相を伝える中、私は情という非常に危険な要因に気付きました。或る人は、相手の意見ややり方が法理に一致しているかどうかを考えずに、逆にそれが自分の考え方に合うかどうかを見ます。ですから、同修の間で効率よく協力が出来ないのです。また、一つの資料を作る際、それを読む人が理解出来るかどうかに留意せず、如何に自分を表し、如何に自分の言いたいことを言い尽くせるかを考えるので、従ってその資料が出来上がっても、読者からの共鳴が得られなかったのです。
法を正すという道において、もし、私たちがしっかりと法理から考えて、一つ一つの事を客観的に、かつ厳しく法の要求している基準で行えば、きっと問題やトラブルはないでしょう。何故かと言うと、私たちが従っているのは宇宙の法だからです。私達が法理から考えるのを邪魔しているのは、往々にしてまさにこの情というものです。
情から飛び出し、法理を基準にして、法を学び精進すれば、新たな理を認識出来、修煉の次のステップへ導かれます。絶えずこのように新しい法理を認識し行えば、そのこと自体法が人間社会を正しながら順調に進んでいくということになり、個人としての円満もその中に含まれています。
以上個人なりの悟りでした。
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