日本明慧


高校生が数年の経験を自ら述べた:どんなに苦難に遭っても依然としてしっかりと歩き続ける

2003年4月8日

【明慧ネット】私は高校生です。「真・善・忍」を堅く信じているため江氏の政治ごろつき集団に過去4回拘留され、現在学校を除籍され、外で流浪し、家があっても帰れない状態です。

私は小さい頃からある辺鄙な農村で暮らしていました。当時の生活条件は非常に苦しく、ある時は飢え、ある時は腹いっぱい食べられることが度々有ったため、小さい時から体は弱かったです。父親が早く亡くなったため、私と母はしっかりと助け合ってきました。母は私を学校に行かせるため、朝から晩まで精を出して働いたため、全身に病気になりました。お金がないため薬も買えなくて、じっとこらえました。その後、隣村の紹介で、母が法輪功を修煉し始めました。その時、私は母が法輪功を修煉することに対して反対しました。しかし、母はずっと修煉し続けました。そのため、私は最愛の母と仲が悪くなって、一言も喋らなくなりました。しかし後になって、私は母がだんだんと変化しているのを発見しました。母は毎日にこやかで、心もとてもよくなって、長年の病気もなくなりました。私は、法輪功は本当に不思議だと感じました。

それから私は授業が終わって家に帰ると、母が外で煉功している時、こっそりと母の「転法輪」を読みました。私はだんだんこの本が好きになり、とても大切に思うようになりました。母がそれを見つけると、毎日私も一緒に煉功するようになりました。私は法輪功というものがだんだん分かり、法輪功がどれほど良いものか、師父がどれほど偉大かが分かりました。師父と法輪大法のこの苦難の日々のナかに、私と母は希望を見出しました。だから私と母は毎日幸福に暮らしています。そして私は学校で成績優秀者となり、毎年優等生と評価されました。

しかし、1999年7月に邪悪な江氏集団が大法と大法学習者に対して迫害を始めました。全国の大法学習者は皆陳情に訪れ、政府に対して私たちの師父の名誉を回復し、大法学習者に安定した修煉環境を返し、収監された大法学習者を釈放するよう求めました。7月28日私はお金がなかったので、家にあった食料を売って路銀にして2人の学習者といっしょに北京へ陳情に行きました。北京に着くと、そこは警察でいっぱいでした。天安門、国務院信訪局の入り口は私服警官や警察で一杯でした。私と2人の学習者が国務院信訪局に到着するとすぐに警察に取り囲まれ私たちを引き止め、法輪功学習者かどうかを尋ねました。そうです、と答えると、彼らは不法に身体検査を始めました。彼らが師父の「転法輪」を地面に捨てたとき、私は本を守ろうと本に覆い被さりました。すると彼らは電気警棒で私の後頭部を殴り、私は気を失いました。気がつくと、私はすでに前門大街派出所に拘留されていました。私はそこに不法に3日間拘留されました。その後私は地元の派出所に送り返されました。派出所の悪警官はこの機に乗じて私に500元の罰金を払うよう要求し、さらにこれから煉功や北京へ陳情にいくことを許さないといいました。彼らが言うには、北京へ陳情に行くのは「社会の治安を乱す行為」だというのです。

家に帰ったら、母は北京への陳情の上京を聞いた後、隣村の学習者と相談して、お金になるもの全てを売って路銀にして、1999年9月16日にもう一度北京へ陳情しに行きました。天安門についたら、そこには各地から訪れた学習者がいて、私たちはすぐに知り合いになりました。夜、私たちは林檎園付近の地下室の旅館を見つけ、そこに泊まりました。2日目に信訪局へ行きました。申請表に記入し終わったとき、公安が私たちを呼び、強く殴ったあと「おまえたちは本当に世間知らずだな」と言いました。私は大法学習者として真善忍を良く学べとの師父の言葉をしっかり覚えていましたので、殴られても殴り返さず、罵られても言い返しませんでした。彼らは私たちを不法に3日間拘留して釈放しましたが、私はすでに何も持っていませんでした。

私はまた天安門広場に来ました。天安門広場で2日過ごしました。飢えや渇きにただ耐えていました。夜は広場の通路で寝ていました。23日の朝、私は山東省から来た12人の学習者と会いました。彼らは私の状況を聞いた後、信訪局へは行かないことを決めました。10月1日を待って、天安門広場で横断幕を広げ、人々に真相を説明し、法輪大法が正法であることを伝えることにしました。その夜私は彼らといっしょに旅館に泊まりました。そこで私たちは交流し、煉功し、法を学びました。10月1日朝5時頃、私たちはいっしょに天安門広場へ行きました。その時すでにたくさんの人がおり、人で広場は一杯で、私と数名の学習者は容易に中へ入れませんでした。私たちは人民記念碑の下を見つけて、そこで横断幕を広げました。すると間もなく悪警官の群れがやってきて私たちを地面に叩きつけ、護送車に押し込みました。その時、無数のその他の法輪功学習者が皆横断幕を広げていました。警察は私たちを派出所へ連れて行き、始めに酷く殴りました。そして私たちは暖房機の上に7時間吊るされました。その後私は蓁皇島に送られ、不法に5年の刑を言い渡されました。

刑務所での日々は、世間の人には想像できないものでした。悪警官たちが思いつく拷問を、すべて私たちにかけました。ある学習者がこっそり持ち込んだ師父の新しい経文を読んでいるのを悪警官に見つかった時、私の足が部屋の上にある鉄棒に8時間もの間吊るされました。2日目には私は「厳重管理グループ」に入れられ、そこで食事や睡眠のみならず、動くことさえ許されませんでした。しかし私たちは心の中で法を学んでいました。そこでの14ヶ月にわたる非人道的な虐待によって、私は人ではなく物であるかのような扱いで苦しめられました。

2001年1月、看守は私たちを石家荘へ連れて行きました。私は数名の学習者と同じ車に乗りました。夜中の12時頃、車が廊坊駅に着いたとき、私は意識がないまま車から降ろされ、このように警察の監督から逃れることができました。その時私は感動して、涙を流しました。なぜなら、師父が学習者一人一人に関心を持っておられ、師父がいなければ私は脱出できなかったからです。街の中には身寄りはいませんでした。でも、私は大法の学習者です、何も恐れることはないと思いました。このようにして10数日の流浪の末、私はある街にたどり着きました。そこである学習者が私を助けてくれました。しかしここの生活条件は比較的悪く、食事の保証さえありませんでした。衣服について、その学習者に頼ることしかできませんでした。

私は2002年10月にもう一度北京に行きました。このときには悪警官に捕まり、酷い殴打に見舞われ、右腕を折られ、路上に捨てられました。私は痛みに耐えて、12日さまよった後、あの街へたどり着きました。しかし腕が酷く痛み、治療費がとても高かったので、ただ病院で切断手術を受けることしかできませんでした。

私のような、迫害を受けて障害者となった大法学習者の数は計り知れません。しかしあの悪警官には、大法学習者に対してあのような迫害をしないことを願っています。さもなければ彼らはその報いを受けてしまうからです。それから、江氏グループの迫害によって、私は母とすでに3年もの間連絡が取れていません。私は大法学習者ですから、大法のことをし、法を良く学ぶのは当然のことであり、今でも私は法を正す道をしっかりと歩きつづけています。