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『集異記』に記載された事例:無知の兵士が聖なる跡を冒涜し、報いに遭って即死した

2003年4月17日 文/盼太平 編集

【明慧ネット4月17日】レベルの高い僧侶は修煉を通じて違う空間の高エネルギーを取り入れ、本来の肉体の物質と取替えた後、死後に不壊の肉体を残すことができると言われている。この肉体を佛教の中で“聖なる跡”とみなされている。次に述べるのはこのような聖なる跡を冒涜して報いに遭った物語である。

唐代の元和十三年、鄭滑節度使(軍隊の棟梁の名称)の司空薛平さん、陳許節度使の李光顔さんは共に皇帝の命令を受け、各自の軍隊を統率した。衛地(河南省の淇県の近く)から出発し、東平を掃討に出かけた。濮陽の南3キロまで進軍し、そこに一時駐屯していた。現地の住民はすでに逃げ去り、村に一つの佛塔があった。塔の中に一人の高僧が円寂した後(死後)に残された、不壊の肉体が入っている。目を開けて座っている姿に、袈裟を巻いている。触ると、袈裟が塵のように舞い落ちてくる。連日、大勢の人が囲んで見ていた。

その中の許州からの兵士郝義は“これは本物であるはずがない”と言って、肉体の心臓部を強く刺した。郝義は佛塔から降りて三、四歩ほど歩いたところ、胸を押さえながら、一度大声を出した後、気絶した。節度使の李光顔さんはこの事件を記録させ、記録用紙を佛塔の下に埋めるようにと命じた。翌日、陳州からの兵士毛清は“そんなことはありえない。昨日の郝義の死は、たまたま時間が合っただけだ”と言って、刀で不壊の肉体から二本の歯を掘り出した。毛清も佛塔から降りて三、四歩ほど歩いたところ、顔を押さえながら、一度大声を出した後、気絶した。李光顔さんはまたこの事件を記録させ、記録用紙を佛塔の下に埋めるようにと命じた。

その後、再び冒涜しようとする人はいなくなった。駐屯している人々は福を求め、平安を護ってくれるようにと神霊に祈り始めた。線香を捧げる人々は周囲2キロの範囲内から続々とやって来て、非常に込み合っていた。兵士たちは金や衣装なども捧げ、佛塔の周囲にはたくさんの品物が集まった。鄭滑節度使の司空薛平さんは、重い戦傷を負った兵士を佛塔の周囲に住まわせた。10日間も過ぎないうちに、重い戦傷を負った兵士たちも本隊に付いて東へ進んで行けるようになった。

今に至っては不壊の肉体に刺された傷跡と歯が欠けた跡もはっきりと見える。

(資料の原典: 『集異記』)