日本明慧


江沢民に対する訴訟案と全体的情況

米国大法学習者筆

【明慧ネット5月7日付】計画的絶滅罪で江を米国法廷にて告訴することは、人類の一大事である。法を正す時期の大法弟子は、人間のレベルでの口論における勝敗を気にする、心的状態から抜け出すべきである。自分を何者かと、又は何事かと対立させるよりは、私達は法を正すことの見地から衆生を救うことを理解して、衆生に救いの手を差し伸べるべきである。

最近私は代理人の助手と、江に対する訴訟について話した。私の話を聞いた後彼が提案したことは私を奮い起たせるものであったので、それをここに同修と分かち合いたい。

江の犯罪を人々に告げる時、あなたは善か悪か、又正か不正かのレベルでこの問題を述べているのではない。ということは、私が正しくあなたが間違っているとか、私は良くあなたは悪いとかのレベルで口論しているのではない。もっと明確に言うと、このような事を双方の対抗的関係として述べてはいけない。

例えばいわゆる「自焚」事件に関し、私達は、何人のWang Jindong が居たか証明すること、又はWang Jindong が法輪功学習者であったか否かに焦点を絞るか、それともこの迫害は元々起きるべきでなかったという事実に焦点を絞るべきか? 私達の思考はこの迫害を完全に否定することに焦点を当てるべきか、それとも巧みに操られた犠牲者を否定するべきなのか?

例えばチャールス・リーの救済の為に、私達は救済そのものを最終目的として、彼の釈放を遂行する為に最善を尽し、そこで止めるのか? それとも迫害全体に関し真相を伝え、法輪功学習者が真実を説こうと努力する理由を人々に理解させ、中国のメディアが真相を覆い隠し、事実を曲げるという事実を人々に分からせ、各国が真相を知り、信仰の自由と公正を支持することの重要性を、そしてそれが社会の安定と人民の幸福に繋がることに気付かせるか? もしも真相を伝える過程で邪悪要素を取除き、人民の支持を得るなら、チャールス・リーに対する邪悪の迫害は続けることができるのか? 又絵画展を催す為に真相を伝え、展示出来るかどうかを成功を測る基準とするべきか? それとも人々に迫害を理解させる為に真相を説き、絵画展の形式を使ってこれらの国々が救済されるようにするべきか?

この二つの例は、部分と全体、細部と大局の関係を理解する必要を指摘する。法を正す観点から大局を見ることによってのみ、私達は細部に囚われ自分自身から又外部からの妨害に左右されるのを、避けることが出来る。このようにして私達は重要なことから逸れること無く、明晰な心を保持出来る。

江に対する訴訟に、そして訴訟手続きに、私達は大きな注意を払い、うまくやらななければならない。具体的な法律事務を成し遂げるだけでは、十分と言えることからは程遠い。この訴訟の意味深さは、地球全体に及び、人類社会の訴訟を超越することにある。法を正す時期の大法弟子達が人間世界において、全ての人が善悪を明白にし、自分の未来を選択するのを助けるのは偉大な出来事である。私達は又衆生に真偽を明白にし、社会運行の原則を真っ直ぐにし、各国が自分を正しい位置に置いて、法律を公正に施行する機会を与える。それは又訴訟を通じて衆生を救うことに関係する。訴訟の成功の為には世間の人に真相を伝えることが非常に重要である。世間で最も重要な仕事は、私達が真相を伝えることを通じて衆生に邪悪を認識させ、邪悪を抑制し除去することであると言える。

しかしながら、私を含む学習者達が迫害の真相を説明しに行った時、表面的には正義の為の様に見えた、感じ取るのが難しい程わずかではあるが、競争意識を持っていたことがあった。この様な方法で真相を伝えると、衆生を救う慈悲の心は、まだ取除かれていない人間的心理によって簡単に妨げられてしまう。だから聴衆は、私達が真に理解して欲しい要点を十分に捉えることが出来なかった。それに加えこの様な心理はしばしば、衆生を救うという元々の基本的な大事を変えてしまった。この種の執着は法を正す時期の大法弟子に期待される、言葉の威力を軽減してしまった。だから私達の言葉が人々の良心を目覚めさせ、動かすことが出来なくなってしまった。それは聴衆の心に矛盾を感じさせ、彼らがその問題解決に積極的に参与し、自分を投入させることを出来なくしてしまった。

同様の心理で私達は自分達の要求が期待通りに行かないと、この部門が、又あの機関が、自分を正しく位置付け出来なかったと文句を言う。何故道徳基準がそんなに低いのだろうか? 本当の文句が続く。時にこの様な文句は政府職員との会話や通信にも加わる。

もしも人類社会の道徳基準が十分に高ければ、法を正す必要はない。師父は私達を非常に頽廃した道徳状態から掬い上げ、修煉を通して法を正す時期の粒子となるようにさせた。師父はどれ程大きなほねおりをしたことか? 常人は私達の様に「浄化」される過程を経ていないから、彼らに文句を言ったり、彼らを責めたりせずに、私達が真相を伝えて彼らを救わなければならない。私達の文句や執着の反映そのものが常人の心を妨げる原因となっているのであり、又それらが旧勢力が拡大させ、撹乱させる部分でもある。

それに加え、人間の特別な知識、技術を必要とする大法の仕事があると、しばしば二つの情況が出現する。一つは、相当多くの人が困難を恐れる故、人間的心理と観念に邪魔される。「困難」という一言が路を妨げ、積極的に法の勉強をし、積極的に参与しようとする心を持つよう自己調整することを妨げる。もう一つの情況は専門家であるかのように振る舞い、法を証明することよりも自分の能力を証明することの方を重要視し、衆生を救う威力は、人間の「専門家」や「学者」から来るのではなく、大法と大法弟子から来るものであることを忘れてしまう。これら全ては私達が前進しようとする路の障碍となる。旧勢力の邪悪な演技と多くの衆生の頽廃という外的条件下にあって、法を正す過程で人類社会に様々な理不尽な反応を起こさせるのは、しばしば大法弟子の執着である。私達が自分の執着を放下しなければ、もっと多くの人々が旧勢力の妨害に遭い、滅ぼされるか、それとも機会を与えられた時に自分をはっきりと正しい位置に置くことが出来なくなる。私達の執着が衆生が救われるのを妨げる障碍となる。

もしも私達が師父が2003年旧正月十五日米国西部法会での解説で言った事に本当に従うことが出来るなら: 「次のことを永遠に覚えておいてください。つまり、今日大法弟子に現れた全ての妨害は私が認めていないということです。現れるべきでないことは皆旧勢力の按配であり、旧勢力は皆さんの個人修煉を何よりも重要であると思っています。もちろん、個人の圓満成就は何よりも重要なことであり、自分自身が圓満成就できなければ、何を言っても無駄です。しかし、今日の大法弟子がやることは歴史上の如何なる時期の修煉とも違います。それは皆さんには自分自身が圓満成就するより更に大きな責任があるからです。衆生を救い済度し、法を証明することは個人の修煉をはるかに超えていることです。これは更に大きなことであり、旧勢力は正しく対処することのできないことであり、そのため、皆さんを妨害しています。旧勢力を否定し、正念をもってこの全てに対処してください!」

法を正す時期の大法弟子の「内面を見る」ということを正しく認識することが出来るなら、私達は真相を知らない政府職員に、本当にはっきりと真相を説明したかどうか度々自分自身に尋ねるべきではないが? 衆生を救おうとする慈悲の心をもって真相を伝えたか、それとも即席に目的を成し遂げようとする 気持を心のなかに隠していたのか? 遂行心無く、純粋に理知的に、真相を学ぶのを助けたかったのか? 自我を放下し、大法と、衆生を救うことを最優先にしたか? もしもこれを真に成し遂げていないなら、私達は自分の観念の障碍を見い出すために、各々内面を見るべきであり、皆が一体としても内面を見るべきであり、障碍を断固として取除き、法を正すことの要求に従って、良く行うべきである。