日本明慧


交流体験の中での善念悪念

2003年4月29日 文/大陸大法弟子

【明慧ネット4月29日】同修との交流あるいは明慧ネットの体験交流文章を読むとき、自分の考え方、観念、認識を持たないで、相手の角度から、彼らが語る言葉あるいは体験を考えると、私は確かに相手が話す言葉の真の意味が理解でき、相手が法の中で修錬するその殊勝さと大法の慈悲を体験でき、自然に自分の良くできていないところはどこか照らし合わせるようになり、聞いたことや見たものは全て相手の素晴らしいところだけとなり、そのときの私の念は善であり、私の表現も善であり、いつも自分が向上すべきところを見つけられ、大いに益を受ける。

私が自分の認識或いは観念(時には甚だしく非常に強い)、或いは批判の気持で同修と交流し、或いは明慧ネットの体験交流文章を読むとき、往々にして相手が語る真の意味を理解できず、そして完全に相手を誤解したり、ひいては主観的に相手にあれこれの執着があると判断すると、まさにこの執着が相手を不正確に認識し、法に基づかなくなるようにしたと思い、口では言わないが、心では自分の観念で相手を測る。この時の私の念は悪で、頭はこんなに良くない考えと、相手を軽視する悪念で満ちている。表現されると相手が目障りになり、相手の認識に問題があるとか、或いは不健全だとか思い、口から出した言葉は強烈な厳しい責めが含まれ、自分では相手のためであると思い込むが、この場合自分が向上出来ないだけでなく、顕示心、闘争心、嫉妬心を助長し、これはほかでもなく一番旧勢力と邪悪に利用されやすいのである。

偶に同修と交流すると、法理に適わない観念と認識、ひいては過激或いは誤りが明らかに分かってくる時がある。その場合、私が善意の立場で相手の角度から辛抱強く良く聞き、相手が何でこんなに低い認識を持っているのかを考えないとき、私の考えの筋道ははっきりして、師父の法が頭にはっきりと現れる。それと共にこの認識を作り上げることが出来た思想観念が明確に意識でき、私は相手に私の認識を教え、そして相手も共に師父の説法を復習する、この時、私の念は善であり、純正である。相手も往々にして容易に受け入れ、私との交流で収穫があったと思う。

私が上記の状況を目にした場合、只相手の観念を変えようとしたり、或いは相手の認識が間違っていると思い、こんな認識があってはいけないと思うとき、私が相手を厳しく責めようとし、辛抱がなくなり、引き続き聞こうとしないとき、しばしば相手の話をさえぎって、相手の問題点を急いで指摘しようとするとき、私の念は悪である。相手が受け入れない(こんな場合、相手は大多数受け入れない)と、内に向って自分の心理状態になにか問題があるのではないか、学員の上にいる心があるのではないかと探すのではなく、一方的に相手の悟性が良くない、ひいては相手を軽蔑する心が生じ、いろんな人心が一気に噴き出し、修錬者としての寛容と善意な理解を完全に無くしてしまっているのである。

善悪は一念である。師父は私達に:“実は皆さんの以前の本性は、自分の為私の為を基にしたものであり、今後何かをする時にはまず他人のことを配慮し、無私無我かつ他人を先に自分は後にするという正覚まで修煉しなければなりません。”(《法輪仏法(精進要旨)——佛性に漏れ無し》)と訓戒を与えた。私達の一思一念は修錬者としての基準にかなっているかどうかを体現している、修錬する人は執着を取除くだけでなく、更に大事なのは執着を取除く過程で真、善、忍の宇宙の特性に同化し、本当に修錬者の善を体現し、正法覚者の慈悲を修めることである。

以上は個人の体験であり、不適当な所に対する慈悲なご叱正を請う。