日本明慧


善を行い、徳を貯めて初めて長寿ができる——私の祖先の物語

2003年5月3日 

【明慧ネット5月3日情報】私の故郷は山東省のある農村にある、既に十数代の先祖たちはそこで生活していた。家系図から見ると、私の祖先は長寿という特徴があった。私のひい婆さんは92歳まで生き、お婆さんは83歳まで生きた。今お父さんとお母さんは皆80代になって、やはり元気にしている。私のうちは伝統的な美徳家であり、みんな善のことを行なう良い人達なので、長寿できるのだとよく年老い先輩から聞いていた。 

私のひい婆さんは典型的な農村婦人で、昔の時代では女の人は皆小さい足にしたが、私のひい婆さんはしなかったので、自然的な大きな足をしていた。一生涯薬を飲まなかったとのことだった。ひい婆さんは若いときから善のことをして、いつも自ら他の人を助けた。その当時、米はローラーで人工的に精米していた。村口には一つの公用のローラーがあったが、ひい婆さんがそこで精米しているところに、誰か来たら、「貴方はほかの事をしに行きなさい、貴方の米は私がしてからお宅に送るから」といったりしていた。隣の家の子供が病気になったら、ひい婆さんは餃子とか、餅とかを作って送ってあげたりしていた。いつもそうしていたので、家人には反対する人もいた、ひい婆さんは:“私は自分が一食のご飯を食べないで、省いたのを子供にあげているので良いじゃないか?”と言った。ひい婆さんはいつも美味しい物を作って、竹かごで高い所にかけていた。子供がいたら、それらの食物を子供たちにあげたりしていた。ある年、山東では旱害を受け、食料が全然取れず、多くの人たちは故郷に離れて行ったので、村は荒涼の景色になった。ひい婆さんは何ヶ月も野菜を食べて、省いた米を家族に食べさせた。ある時死にそうになった人を救済した。 

時間が経って、周りの村の人たちは皆私のひい婆さんは善を行なう大善人だと分かった。ひい婆さんの話になったら、皆は親指を立て、「本当に良い人だ」と言ってくれた。 

ひい婆さんは92歳の時もやはり割りと軽い農作業をやっていた。家族の人たちは家で休むことを勧めたが,ひい婆さんは:「私はじっとしていられない、何をしていたほうが、体も楽になる」と答えた。信じられないでしょうが、ひい婆さんは90歳になっても、歯が丈夫で、落花生も食べられた。 

ある日、ひい婆さんは皆と一緒に仕事に行ったが、しばらくして「私は具合悪いので、先に帰るから」と言った。そして一人で家に帰った。家族たちが帰ったとき、ひい婆さんは既にベッドに横になって亡くなっていた。村の人たちは皆 「大往生」と言った。私のひい婆さんはこういうふうに92歳まで何の病気も罹ることなく生きた。 

私のお婆さんのほうは83歳まで生きた。お婆さんは若いときからよく人のために仲人した、多くの若い人たちはお婆さんの紹介によって、幸福な結婚をした。勿論お婆さんはなんの報酬も貰わなかった。人に気に入る相手を紹介してあげるために、お婆さんは時々昼ご飯も忘れて一人で遠いところまで歩いて行った。ある時は若い人たちの家庭に矛盾があったら、お婆さんが解決してあげた。

今私の父親は81歳になった。父親は民国、満州、国民党、共産党など各政権の “朝代”を経験した。父親は運搬工、商人、労働者などの仕事をしたことがある。良心に悔いることは絶対しなで、一生涯心が広い人だった。私が小さい時のある日、大雨が降ってきた、家の裏の壁は修理の必要があり、父親は兄、私を連れて家の裏に行った。雨が強くて、地溝には水が一杯貯っていた。その時、一人の三、四歳の子供が突然1メートルぐらいの深さの地溝に落ちた。見る見るうちにその子供が流されて溺れそうになったところへ、父親がさっそく駆け付けて子供を救った。その子供はしばらく廃水を吐いてから家に帰った。父親は絶対そのことを言わなかった。ある日私はそのことを話したが、父親は:“恩を与えて報いを図らない、他の人のために何かをしても、感謝の報いを貰いたがってはいけないのだ」と言った。その当時私はその話の意味がまだ分からなかったが、だんだんと他人のために何かをしても、報いを求めないという意味が分かってきた。 

私の母親も80代になった。母親は一生の内無数の苦しみを受けたが、如何なる時も他人を先に思っていた。1960年の凶作の年は家族全員わずかの糠の中に野菜を加えて日を過ごしたが、ほんの僅かな食糧は我々子供たちに食べさせてくれた。 

家には子供が多くて、私が小さい時は生活が貧しかった。母親は毎年一、二頭の豚を飼った。毎年正月に豚を殺すとき、私のうちの庭は一番にぎやかだった。母親が隣の人たちを誘って豚肉を食べることは慣例になっていたようだ。近所の誰かの家に手伝うことがあれば、母親はいつも何人かの子供を呼んで手伝いに行かせた。私の記憶中では母親の眼はいつも善良な光を放っていた。母親は誰に対しても友好で、親切にしていた。近所の人たちは皆母親との会話が好きだった。 

私の先祖の中には高官や有名人はいなかったが、我々の先祖たちは伝統的な美徳を持っていた──人に善を与える、善を働く。それで、我々のうちは皆健康で長寿できた。