日本明慧


美しい思い出──法の光に照らされて

2003年5月4日 文/大陸の大法弟子 

【明慧ネット5月4日】私と主人は共に気功愛好者であり、特に主人は30年間太極拳を練習し続けてきた。1993年3月、李洪志師父は功法を伝授するために武漢に来られた。主人の同僚は何とかして私のために一枚入場券を手に入れた。25日に私はわくわくして市政府ホールで行われる李先生の講義を聴きに行った。入場口に到達してから、鞄のジャックが開かれて財布と入場券を盗まれたことに気づいた。入場券が無くなって、座席の番号も覚えていない。人々が続々入場した様子を見て、焦りが一層増えた。講演がもうそろそろ始まるし、どうしたら良いだろう。その時、突然“十番9号”と言う文字が頭の中に浮かんできた。本当に不思議だった。私はすぐ会場の管理人に入場券を無くした事情とその番号を説明した。管理人はその番号の座席を確認したところ、確かに空いていた。そして私は入場を許可された。会場にはすでにびっしり座られて、通路にも人いっぱい詰められていた。

武漢市気功協会の責任者は簡単に師父のことを紹介した後、一人の年寄りの女性が講壇に上がって三周走り回ってから、自己紹介をした。この女性は町内会の幹部で、3年間寝たきりで、人の世話に頼って生活していた。昨日に長江経済ラジオ局が放送した電話相談の番組の中で師父の指導を受けてから、その通りにやってみたら、すぐ効果が現れた。講壇の上で軽い足で走る様子を見たら、一日の前に3年間も寝たきりの患者だったと誰も思わないでしょう。

司会者は講演会の開始を宣告した後、師父は講壇に現れた途端に、会場に雷鳴のような長時間の拍手の声が響いた。

師父は講義の始めに気功が修煉であり、気功が先史文化であることなどをはっきり指摘し、分かりやすい言葉で、奥深い法理を学習者に教えてくれた。私は今までたくさんの気功講習会に参加したが、ちょうど師父が『転法輪』の中で言われたように、本当の高次元のものは頭の中でまったくの空白であり、何にも分かっていなかった。あっちこっちに尋ねて、私はやっと夢にも求めていた高徳の大法に巡り合った。家に帰ってすぐ主人に話して、今後この気功法だけを練習し、他の気功法をすべて止めることを決心した。

講義を始めてからの二日間、録画を取る学習者がいた。師父はこれらの学習者たちに「撮らせるなら撮ります。取らせたくなかったら録画ができないから、やはり録画を止めてしっかり講義を聴いたほうが良いでしょう」と注意した。この話を信じない人は録画を続けたが、結局機械が故障したり、テープが切れたり、或いはテープに何も撮れていなかったりして終わった。

受講期間中のある晩に、私は夢の中で師父を見た。師父の傍に一つ広く長く銀色の階段があり、ずっと天の上に伸びている。後、師父から伝授された功法が我々のために天に登る梯子を敷いてくれたと私は悟った。

ある日、昼休みの時に、師父は講壇から降りて来て学習者の中に入り、私の傍の席に座って学習者に記念のサインをした。師父はたくさんの学習者にサインをした。私はノートを持ってこなかったので、サインを貰えずとても残念だった。 

講習会が終了した日、もう一度師父の顔を身近に見るために、たくさんの学習者は会場の外に立ち止っていた。師父を見たら、私は思わず「李先生!さよなら!」と大声を出した。師父は私に振り向いて、「しっかり煉功してね」と言てくれた。その一瞬、私は体が温かいエネルギー流に貫通されたように感じた。感無量で、一言も出なかった。師父が通り去っていくことを見送った後も、私はまたそこに立ち止ったままで、涙がぼろぼろ流れていた。いつ家に帰ったか、記憶にまったくなかった。後で考えてみれば、入場券を盗まれたことは私の法輪功に対する誠意の試練だったかもしれない。師父の顔を拝見する前に、すでに面倒を見てくれた。200元を盗まれたことも無縁ではなかった。私は仕事の便を利用して、息子に無料のバス乗車券を手に入れた。その200元はちょうどバス乗車に必要な金額でした。正に失わなければ得られないことでした。

 法を得てから1ヵ月後、私の体に消業反応が現れた。10年以上大腸炎に悩まされているので、そのとき血便がたくさん出た。毎回数百ミリリットルで、半月ぐらい続いた。当時、大法の本がまだなかったが、私は師父が講習会で教えてくれたことを思い出した。「苦しければ苦しいほど、物事が極まれば必ず逆の方向へ転化するので、身体全体が浄化されようとしており、浄化されなければならないことを苦しさそのものが物語っています。病根はすべて取り除かれており、残りはほんの少しの黒い気で、それを外に発散させるので、あなたにほんの少しだけ難を与え、ちょっとした苦しみを嘗めさせることになります。あなたが全然苦しみを嘗めないわけにはいかないのです」(『転法輪』) そして間もなく良くなった。もう一回、激しい腹痛に襲われた。激痛によってじっとして居られず、ベッドの上でごろごろしていた。私は師父の話を思い出して「こんな身体を一気に浄化してあげるのですから、何の反応もないというわけにもいかず、反応は必ずあります」(『転法輪』) そして、この理を悟ってから、すぐ症状が消えた。

同年9月25日に、師父は再び武漢に来られた。飛行機から降りたら、すぐある大学の会議場で講習会を始められた。今回も数千人の参加者があった。私の傍に一人の年寄りの方が座っていた。彼は講義を聴きながら、筆記をしていた。中間休憩の時、彼は私に話しかけた。彼はすでに5回も李先生の講習会に参加した。今回師父を追いかけて、貴州省の貴陽から来た。彼は周りの十数人の年寄りの方を指して話を続いた。この年寄りの方たちは全部彼の大学時代の同級生で、今回、彼の電話を受けて、わざわざ南京から来た。彼は引き続き李先生について講習会を聴きに行くと話した。彼は若い時から気功の愛好者だった。たくさんの気功講習会に参加したことがあったが、このような高徳の大法を聴いたのは始めてのことであった。彼の奥さんは李先生の講義を聴いてから、天目が開いて、法身と法輪が全部見えた。

今期の講習会で一人のプロのカメラマンと出会った。彼も3月に武漢市政府ホールで行った講習会に参加した。当時、彼は現場で録画していた。師父から撮影しないようと注意されたが、彼は師父からの注意を受け入れず、そのままとり続けていた。家に帰ってチェックしたら、何にも撮れなかった。20年以上の職業経験の中に、こんな不思議なことは初めだった。師父が絶対に普通の気功師ではないと彼は言った。

1994年の末、師父は広州で国内で最後の講習会を開かれた。その以後、私は再び師父の顔を見たことがなかった。今では、身近に師父の講法を聞いた時の事を思い出すと、幸せな気持ちが胸いっぱいに溢れる。

最後の講習会が行われた時の雰囲気は、常人社会ではあまり見れないし、常人の言葉でも表現できないことでした。実は、最後の講習会を行う情報は公に伝えられなかった。各地で僅かな人しか知らなかった。しかし、参加者は7千人を越えた。体育館に入りきれず、広州の学習者は自分たちの1千枚以上の入場券を他の地方から来た学習者に譲った。正式に講義を始めてから、体育館の外に四、五百人が座って、有線放送で師父の講法を聞いていた。師父はわざわざ外へ出て、外の学習者を見に来られて、外で聞いても中で聞いても同じ効果だよと教えてくれた。広州の生活費が高いので、多くの学習者はインスタントラーメンを持参してきた。毎日二つの蒸しパンしか買えない学習者もいた。新疆ウイウル自治区から来た学習者は一週間早く広州に着いたから、持っていた金が全部使い切ってしまって、最後に蒸しパンさえ買える金も無くなった。北京からの学習者はこれを知ったら、百元単位の金を彼たちに支援し、安心に法を聞くことが出来るようにさせた。毎日師父が体育館に入る前に、すでに拍手が聞こえるようになり、師父が入場した後、雷鳴のような拍手が会場に長時間響き渡った。慈悲深い師父は学習者の滞在費を減らすために、10日間の講義を8日以内に終わるようにした。毎日師父は3時間以上講義されていた。

最後の一日、各地の補導点や学習者から師父に記念の横断幕や花を贈った。贈呈式が一時間以上も続いた。花や横断幕は講壇いっぱいに並べられた。儀式が終了した後、学習者は師父から離れようとしない、拍手が波のように絶えなかった。最後に多くの学習者は涙を流しながら、体育館を離れた。