日本明慧


同修間の交流を法を正す基点から扱う

【明慧ネット】同修間の交流は、私達が法理の理解を促進し、修煉と法を正す仕事において自分を高め、師父が行う様言った三つの事を本当に良く行うことを意図する。しかし我々が体験談に人間の情やはずれた要素をあまりに多く持ち込み、それを放任してしまうと、旧勢力が利用する隙を残すことになるかもしれない。

昨日私の地区の同修数人が交流中に逮捕され、私は悲しく思った。人間の情が混じった為に同修間のある交流会は、常人の「おしゃべり」に落ちてしまった。たった一つの違いは、集会の事を述べるのに、修煉という名詞が使われたことである。この辺りにおいて同修達は長期に渡って不足している。よく考えると、これには二つの理由があると感じる。第一に、同修間に存在する情を完全に消去することが出来ていない。第二に、旧宇宙の中ではずれた要素である、慣習となってしまった思惟方式が作用している。

修煉で進歩し続けるにつれ、私達はしばしば常人と共通するものがより少なくなると感じる。他方、同修達とは共通するものが多く、年齢や職業に関係なく大変話しやすいと感じる。だから同修達は互いに話したい事が多くある。しかし正にこの為に同修間の交流はしばしば不純となる。共に持つ限られた時間を大事にし、共に精進出来るように使うことが出来ない。代わりに私達は法を正す時期の修煉と直接関係のない事柄や人々について話すのに、多くの時間を費やす。

常人は自分の観念で全てを判断し評価して考えた事を人に言うのを楽しむ。そして自分の名利や幸運、私的な関係を見せびらかせて喜ぶ。一方修煉者に喜びをもたらすものは、心が静水のような状態にある時に感じることの出来る、大法の威厳とすばらしさ、そして宇宙の無限の驚異と不思議である。修煉者にとっては、ある人やある事について話す時、そこから学ぶことの出来る体験や教訓を引き出すことに焦点を置くべきであり、そうすれば、自分達を高め、法を正す事において良く行うことが出来る。私達は決して、人や物事を評価する事に焦点を置く常人の様に振舞うことは出来ない。

ある日座禅中私の元神が天国へ帰り、私は自分の親戚達と再会することが出来た。私が感じた喜びと威厳さを現わす適当な言葉は無い。私達は一緒に坐り、「心」を用いて過去数千万年に渡って何が起こったかについて話した。私達が表現したことは、言語だけでなく、物質の真相でもあった。会話は大変厳粛で偉大で、大覚者の無辺の正念と力量に満たされていた。

時々私達が体験談を話す時、表面では修煉に関することを話しているように見えるが、実は法の勉強や、正念を発することや、真相を伝えることと直接関係がない。交流は補助的役割を果たすだけであるべきだ。真に自分を高めるには、自分を法の中に置かなければならない。そうすることだけが真の確実な昇華への路である。旧勢力には、察することが大変難しい程わずかであるが非常にはずれた要素がある。注意しないと、それが自分のものであるかの様に扱ってしまう。天目で見るとそれは大変ねばりのある、灰色がかった黒であるように見える。それは生命を造る何層にも重なる異なった粒子に、しっかりとくっつく。それが覆うものは、「情」が覆うものよりも微視的である。「情」はただの三界内のものであるが、このねばねばしたものは、非常に微視的である。それはより多くの生命が誕生することによって次第に形成された社会関係が、正道からはずれた時に造られた。これが旧宇宙の変異した思考法の源である。気を緩めたとたんにそれは私達の邪魔をし、ピッタリと私達にくっつくのだ。その特徴は: 自分が成し遂げたことを人に言いたがらせ、そうすれば人は自分のことを良く言う。いつも相手が変わることを望み、自分のことはそのままにする。まるで自分が他の人の為に生きているかのようだ。自分が法によって創造され、全ては法によって与えられたということを、すっかり忘れてしまっている。私達は大法が私達の為に創造した生活環境や、生命の状態と特色に責任を持つべきである。私達は自分が悟った事全てに責任を持つべきである。これらの事を評価し承認するのに、他の人は必要ない。何でも人に言う必要はなく、相手を変えたいという望みをもつべきでない。この様な思想は神が許すものではない。もちろんこれは人間には必要なものである。何故なら私達は純正に到っておらず、まだ自分の不足を取除くのを手伝ってくれる人を必要とするから。これは又全体の協調であるが、話し相手をもつ為に交流することは出来ない。これは交流を不純にする。結果として、私達は衆生を救う為の多くの時間を無駄にし、機縁を逃してしまう。

法を正すことが最後に近づくにつれ、私達への要求は高くなる。良く修煉出来たかどうかは、自分の向上と関係するだけでなく、大穹の法を正す大仕事とも関係してくる。良く修煉すれば、より多くの衆生を救い、より多くの邪悪を消去することが出来る。良く修煉しなければ、邪悪からの妨害を多く受け、その邪悪は全ての衆生を破壊する為に、最も邪悪的な方法を用いて私達を迫害する。自分に責任を持ち、同修に責任を持ち、同修との交流の神聖な環境を大切にしよう。

上記は同修の参考までの私の理解である。

2003年5月15日