日本明慧


真剣に修煉の厳粛性を認識することについて

2003年5月23日 

【明慧ネット5月23日情報】 

一、真剣に修煉の厳粛性を認識する

師父は言われた:“一人の人間が修煉しようと思うことは決して容易なことではありません。お話したように、それは極めて厳粛なことであって、常人の域を超えており、常人の如何なることよりも難しいのです。それならばそれは超常的なことではありませんか?だからこそ常人のあらゆる事よりも、あなたへの要求が厳しいのです。”(『転法輪』)だが、かなりの学習者はこの経文の意味を深く認識できず、修煉の中で様々な困惑を感じている。以下にいくつかの例を挙げる。

1)法を学び、煉功する時間はないと強調する。2)話の中に汚い言葉を使ったり、怒るときにものを投げたりする。3)名、利、情の中に陥り、抜け出せない。4)生活の細かいところに注意しない。5)長期間に色魔に邪魔され、生活態度が散漫としている。

本来なら、大法修煉者として我々は大法の心性基準に従って自分を厳しく律すべきであり、一意、一念、一言、一行動はすべて修煉者の基準に従うべきである。 

二、法を勉強することと正念を発することの重要性を十分に認識する

“しかもこの法理は人の一切の愚見、誤謬を除き、一切の人心を正し、一切の正しくない状態を正すことができます。ですからこの法理を学び、読みさえすれば向上しているのです。だからこそ本を読んで法を学ぶことがとても大切だと言っています。”(『ニュージーランドでの説法』)実際には、修煉の中でよくない観念が現れたり、放下できない執着が生じるなどの矛盾が発生した時、この時こそ法を勉強して自己反省し、自分の良くない思想や執着心を取り除く最高のチャンスである。若し我々は本当に法を持って師とすること、法の上で法を認識することができれば、自分の次元が本当に向上出来る。我々は“世間の利益の前に心が動ぜず、嫌な事の前に微笑みで対処し、矛盾の中に自分の責任を探す、……”(『アメリカ中部法会での講法』)のようにするべきである。法を勉強する時、いくつかの点を注意すべきだと思う: 

1、 師と法を敬う心を持って、大法の本を大切にし、大法の本を開く前に手を洗うこと。

2、 心を澄ませて法を学び、求める心を持たないこと。

3、 正しい信、正しい悟りを持つこと。修煉の過程に正念を発することは極めて重要なことである。ある都市に二つの地区があり、A地区の学習者は正念を発することを重要視して、決まった時間に一緒に発正念しそれ以外に、よく正法の口訣を唱えて邪悪を取り除くことをしている。皆力を合わせて努力した結果、A地区の修煉環境がとても良く、邪魔が少ない。一人敏感に感じられる学習者はA地区に行くと、とても気持ちよい感じがし、空気も新鮮で、空間中に邪悪なものも少ない。B地区に行くと、空気が重い感じがして、呼吸も辛くて、気持ちも良くない。発正念を重要視するようにと注意してあげようとしていたところ、B地区のある学習者に残念なことが起きてしまった。交流を通して原因を探してみると、やはりB地区のかなりの学習者は発正念を重要視していなかった。これを教訓として、自分や他の学習者、及び衆生に対して責任を持つことを重要視して、修煉中の三つのことをしっかりやるべきだと再認識した。常に邪悪に隙を狙われないように気をつけるべきである。

三、学習者の間に矛盾を生じることは避けられない。この矛盾をどう対処すべきか、私は慈悲を持って善心で対応することが最も重要だと思う。 

私はある学習者からこのような話を聴いたことがある:“××はもう修煉できない;××は法を破壊する悪魔みたい。”これを聴いた私は心が痛かった。この話をする人の慈悲心はとても薄いと思う。師父は講法の中に言われた:“私が今日行なおうとし、大法弟子に賦与しようとする修煉方式は宇宙の中に今までなかった更に高い智慧を築き上げるためです。その目的は将来落ちてくる生命がここで再び元に戻れるようにするためであり、少なくともこういう機会を持つようにするためです。”(『大ニューヨーク地区法会での説法と法の解説』)天法を犯して天から落ちてきた生命にも師父はまたチャンスを与えたのに、学習者の間になぜ他人の誤りにそんなに執着するのか?なぜいつも自分の長所を持って他人の短所と比較するのか?これこそ自分の善心が足りないことの証しではないか。困難の境地に居る、試練を乗り越えられない、一時誤った選択をした学習者に対して、我々はその人の立場からこの学習者に理解、信頼、助けをして上げ、法理の上で向上させるようにするべきである。慈悲、寛容こそ全体を一緒に向上させる推進力である。また、一部の学習者は自分の話に無責任で、話したことを実行しない、言葉に信用性がない。これによって邪悪に隙を狙われて大きな損失をもたらされた。常人でも信用性を大切にしている。もし学習者の間に互いに責任を持たなければ、どうやって社会に、衆生に責任を果たすのか。常人社会の中で、我々修煉者はよく行えば、常人から理解され、支持してくれるし、初めて法輪大法が素晴らしい、大法弟子が立派な人間であることを分かってくれる。時に私はそのような人と出会った時、本当に千歳一隅に出会った感じがする。宇宙の数え切れない生命の中で互いに会えるチャンスはそう簡単に得られない。皆はこの得がたい縁を大切にして慈悲を持って衆生を済度すべきである。