善心を持ってあらゆることに最善をつくす
【明慧ネット8月4日】最近、我々この地区では、法を正す仕事が順調に運ばなくなった。例えば、江沢民起訴案についてや、中国領事館から理不尽なことを受けたことなど、起きた一連なことから見ると、邪悪が極めてはびこっているように見える。更に江沢民起訴案を中心に真相を伝えている活動も、前より一層妨害されるようになった。これらのことを踏まえて、如何に法の上にたって、これらの現象の出現を認識したらよいでしょうか。師父の説法の中で、こうおっしゃっている。「法を正すことがこの世に戻った時は、つまり宇宙の上の空間の全ての宇宙要素と生命に対して全部やり遂げた時なのです。これは同時に行われることであり、同じ時間に完成するのです。上で法を正すことが終われば、三界も突破してしまいます」。
では、我々が法を正す修煉の中で、会ったあらゆることも、それと同様であるでしょうか。もしかすると、我々は法を勉強し、及び真に修煉することにより、心性の向上ができれば、理性、知恵及び能力も他の空間で猛烈に突破する段階にあるでしょう。異なる厖大な天体が押し込まれた三界内では、異なる次元においても突破中にもあり、それらの妨害がぶち壊れられたなら、此方のほうでも問題が解決される現象も現れてくる。
師父もこうおっしゃいました。「ですから、時々それらは突然人間の表面に入り込み、表面ではその人のように見え、ミクロにおいてもその人ですが、中に他の生命が挟まれています」。
ですから我々は法を正す中で、さまざまなことやいろいろな人に出会うこと、それにその人の述べた何かの言論のすべては、偶然に発生し、単なる偶然に存在することではない。そのすべてには修煉なりの意味が含まれている。我々が修煉により出来上がった部分は完全に封鎖されているため、何年も修煉したにも、修煉により出来上がった部分が如何に合格したにもかかわらず、出来上がる前の部分は、最後まで勇猛精進の修煉者であるべき状態でなければならい。常に法の上でこの一切を認識すれば、我々ははじめて法を正す中で遭遇したあらゆる妨害を突破することが出来る。
現れてきたいくつかの妨害の中に、一つの共通点があるとは私が思う。それはまさに、我々の修煉における心理状態の問題によることである。例えば、法律告訴案においては、多くの学習者が声高くしてこう言っている。「その邪悪を如何しても裁かないといかない。これこそが邪悪を窒息することで、旧勢力を全面的に否定することである」と。更に領事館に問題が起きた時も、少なからぬ学習者は心が動かされた。感情的に思うようになり、怒りを抱きながら不満を訴えている。常人としてのやり方で何かをしようとした学習者がいれば、領事館を目的に何かをしようとし、例えば横断幕を広げて、領事館の前で何かをしようとした学習者さえもいた。
これらのことを取り上げた目的は、皆と一緒に検討し、更に法理上から認識を交流したいと思っている。トラブルを如何に認識するかの問題においては、多くの学習者は人間としての理解と人間としての情を持って対処して、法のために行っているという前提でその心を隠している。実は、前のジョウネーブ国際人権委員会をめぐって、生じたトラブルによる教訓から見ると、我々は行うべきことを行わなかったわけではなく、まさに困難および挫折の前で、真の修煉人として内心に向かって原因を探し、法理を持って間違った心理状態を正さなかったと言うことである。
私はこう理解している。我々の修煉状態が宇宙の基準(たとえ旧宇宙の神の基準であっても)に達せられないのであれば、それらの神にとっては、我々は執着が強く、病気があると見られる存在である。その三界に入った真相が見えない神らが、それを理由にして絶えず我々に難と関を作っているが、師父は奥深い慈悲で、彼らを消滅するに忍びなく、再三に悔悟の機会を与えている。逆にいえば、この期間中は、我々の修煉がよくできていれば、その中の一部分の神は、何もいえなくなり、妨害しようにもできいなわけであり、これにより、救い済度される機会も増えてくるだろう。
私はこのように理解している。師父が法を正すことは、旧勢力を含めてすべての生命を対象に救い済度しようとしているのである。ところが、旧勢力らは如何しても法を正す期間の弟子に試練を与えようとしているがため、法を正すこの宇宙の中の最大なことに挽回のしようのない罪を犯してしまいつつあり、結局、法を正す中で淘汰されなければならない始末である。しかし、逆の角度からいえば、我々法を正す期間の弟子は、しっかり修煉の道を歩み、修煉がよく出来ていれば、その旧勢力らは、それほど多く法を試す口実を作れないことになり、それほど多くの罪を犯さないことになるのではないだろうか?
もちろん、事情はこれほど簡単なものではなく、その背後には更なる複雑な要素がある。しかし、これらの淘汰されようとする高次元の生命を目の前にして、師父の内心には、惜しむ意だけしか残っていないだろう。ある人の心の中では、怒りと不満を抱いている。このような心理では、その旧勢力の中の神を心から敬服させることができるであろうか? 更に如何にして彼らから大法弟子への敬意を生じさせることにより、妨害と迫害を停止し、自らも善に解かれ、救い済度されるであろうか? 我々は「真、善、忍」を修煉する大覚者で、宇宙の中の正の要素に責任を持つものでもあるため、善の一面を持ってあらゆることに最善をつくすべきで、悪の要素の現れがどうであれ、それにより動かされないようにしなければならず、すべての生命を救い済度する善の信念を抱いて、師父の要求された三つのことをしっかり行わなければならない。
最近のワシントンDC交流会においても、師父は再度はっきりと教えてくださった。 「しかし、大法弟子として、皆さんは善を修めているため、慈悲でなければなりません。相手がそれを受け入れても受け入れなくても皆さんは慈悲をもって対処しなければなりません。常人と勝ち負けを争ってはならず、常人の心で衆生に対処してはいけません。相手が受け入れても受け入れなくても、慈悲をもって行ないたいことを行なえば良いのです。慈悲は修煉によってできたものであり、意識して見せるものではありません。慈悲は心から発したものであり、他の人に見せるためのものではありません。また、慈悲は永遠に存在するもので、時間と環境によって変化するものではありません」。
だから、法を正す上においては、我々は正しく実施できるか否か、一大覚者としての心理を持って、一切のことを見るか否かは、何よりも重要である。法を正す広大な勢いが、終わりなきに待ってくれることがありえないため、それらのずっと自らを変えたくない旧宇宙の神による妨害で、より多くの衆生を壊滅しないように、我々は正念を持ってこれらの「旧勢力の黒手」を根絶しなければならない。かと言って、それは純正で純粋な念でなければ、出来ないものである。
その神にとっては、法が厳粛であるだけでなく、我々修煉者にとっても同じく、正法修煉の機縁はいったん逃れたのなら、二度と来ないだろう。我々は常に神の基準で自らを主導をすることにより、絶えず自らの慈悲の容量および内包を拡大でき、危険も無事に乗り越えられるでしょう。そうすれば、はじめて衆生を救い済度する先史の大いなる誓いを実現できるようになるのである。
個人の悟りなので、不適当なところがあれば、同修による慈悲のご指摘、ご叱正をお願いします。
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