江沢民氏に対する審判は既に人々の心の中で行われている
【明慧ネット8月6日】
1.マスコミによる宣伝は、演出されたテレビドラマのようである
ある研究者の談話:法輪功のことはあまり分からないが、真・善・忍を修するということは知っている。あなた方が、私に真相を説明しなくても、テレビに流れたそれらものを見て、信じる気はない。これらのマスコミは、完全に一部権力者を代弁するものであって、市民を愚弄する道具である。法輪功が、真・善・忍を信じる以上、焼身自殺、自殺、親殺し、毒を盛って乞食を殺すなどといったことが、起こるはずはない。マスコミの宣伝情況を見ると、まるで演出されたテレビドラマの様であり、エスカレートして行くが、現実からあまりにも遠ざかっており、時が経つに連れ露見するであろうし、見れば見るほどに信じられない。江氏は、3ヶ月で法輪功を壊滅しようとしたが、50ヶ月になっても出来ず、滑稽なことである。逆に法輪功が益々強固となるのを見ると、法輪功を習うことには、必ずや道理があるものと信じる。江氏は本業に努めず、法輪功にあれだけの捏造を被せるのを見るにつけ、彼が何を言おうと信じることはない。
2.法輪功が江氏を法廷へと送り出そうとするだけではなく、中国市民も審判しようとしている
真相を理解した弁護士の談話:実は、2週間の間、法輪功に対する捏造のニュースを聞くことがなければ、法輪功の名誉を回復させてあげたかどうかとは思う。江沢民——「降災民」とも呼ぶべきではないか。法輪功を弾圧するのにまず罪を定め、後に立法したもので、立法されたものも強引に、法輪功へと被せようとしたものである。中国の法律そのものは、市民を愚弄する道具であり、「降災民」のこの時代になっては特に甚だしい。もし、新しい指導者も継続して、「降災民」が法輪功を弾圧することを容認するならば、党も完全に終りである。世界のどの政府が、真・善・忍を受け入れないであろうか?真・善・忍を受け入れなければ、それはむしろ、偽・悪・暴になるのではないか?かの党は、もう既に「降災民」の手で壊滅されたのである。自分が党を崩壊させたことが分かっているため、軍の指揮権を手放そうとはせず、拳銃で党を指揮しているのである。しかし、そう勝手なことも出来なくなりつつある。法輪功が法廷へと送り裁判にかけようとしているだけでなく、市民も審判しようとしている。現在、大人、子供も含め皆「降災民」を非難しない人がいるであろうか?全国民が罪状を公に非難するとも言えるであろう。
3.中央テレビの法輪功に関する捏造のレベルはあまりも幼稚である
真相を理解した会社社長の談話:あなたが私に説明する必要もない。中央テレビの法輪功に関する捏造のレベルは、あまりにも幼稚である。天安門焼身自殺を報道した時、既に断言できた。これは100%偽ものである!画面は少しのブレもなく、明らかに予め準備しておいたものである。喉が切り裂かれても、まだ話せ、歌え、声もはっきりしているなどありえない…。自分の親を殺害した傅なんとか斌という者は、本当の殺人犯であり、手錠も足枷も掛けずに、踊りまくっているなど、あり得ることであろうか?殺人犯でなくても、ちょっとしたスリを働いて、逮捕されたならば、警官は死ぬほど殴るというのに、手錠も掛けないなどあり得ず、また踊りながら興味深げに話をするなど有る得ることであろうか?彼も制作監督も精神薄弱であるがごとく、あまりにも無知に見える。先日、労働者5万人を買収し、管理局へ陳情に行かせるということを画策したが、ある幹部は会議で法輪功が騒いたものだとした。ところが、買収された労働者側に反論された。「我々は法輪功とは無関係である。我々を利用して、法輪功に罪名を被せることを防ぐために、前もって法輪功の人は参加しないよう宣告した」。現在はこのようになっており、悪いことは全て法輪功のせいにするから、結局この国は江氏の手によって終ってしまった。彼は国家と人民に災いをもたらした悪者にすぎない。
4.法輪功が真・善・忍を言う以上、江沢民氏が恐れないはずはない
真相を理解した技術者の談話:江氏は、なぜ理性を失い法輪功を敵視するのであろうか?それは“真”がないからである。多くの例を挙げずとも、中央テレビのニュースの中に、一体真の言葉がいくつ有ることだろうか?だから真を怖がるのである。また、“善”でもないからである。江氏が話す時のあの醜い表情を見てほしい。口を尖らし、凶悪かつ愚鈍であり、悪なのである。だから、善を怖がるのである。そして、忍をも怖がるのである。彼が世界各地で歌を歌い関心を請う、あの卑しい態度は何たることであろうか。髪はオールバックに小さく固め、両手はやたらと動き回り、まるで世界が受け入れてくれないようで、見る人には愚鈍で粗暴な奴だと直ぐに分かる。だから、忍を怖がるのである。中国人の面子を潰し尽くしたのである。法輪功が、真・善・忍を言えば、恐れないはずはないし、敵視しないはずもないのである。
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