修煉体得
文/海外の大法弟子
【明慧ネット9月7日】
一
修煉は難しい。難しいのは、人に誤解された時、不公平に扱われた時、理解してくれない時、協力してくれない時、人が誤りをおこした時に、自分は依然として何の偏見も持たずに人に寛容であることである。この広大な寛容さは厳しい環境の中で修煉を通して得られたもので、口だけで言うものではない。
旧勢力はなぜ大法弟子に試練を与えるのか。それは我々にたくさんの良くない執着心があるからではないか。旧勢力は往々にして大法弟子の嫉妬心、怨む心、自己満足の心、疑心、闘争心、恐怖心、不安感などの執着心を口実にして迫害を行っている。また、旧勢力は大法弟子のこれらの執着心を利用して、我々に魔難を作り、世人を毒害し、常人に真相資料を読ませない、また受け取らせないようにし、大法弟子を侮辱し、大法を破壊するなどのことを行っている。
もし大法弟子の間に矛盾が生じた時、相手を責めたり、怨んだり、お互いに協力しなかったりすれば、ちょうど旧勢力の罠にかかってしまうことになる。結局、根本的な原因は我々自身の問題である。我々は厳しく自分に要求すべきである。他人を見ながら自分を反省し、より多く自分の問題を探しておれば、周りの環境はきっと益々良くなる。執着心が少なければ少ないほど、旧勢力に狙われる隙も少なくなり、衆生を済度する力もより強くなる。
師父は『転法輪』の中で次のように言われた:“皆さんに一つの真理を教えましょう:絶えず自分の執着心を取り除くことこそ人間の修煉の過程のすべてです。”
二
先日学習者間の交流会があった。交流会の雰囲気がとても良かった。多くの学習者は率直に各自の考え方を話し合った。他人に不足のところを指摘されても、良いところを誉められても、自分の心がどう動くかが一番重要なことだろう。例えば怨念が生じているか、歓喜心が生じたかなどを常に反省すべきである。
昨日の午後、一人の学習者は電話の中で私にこう言った:“交流会の時のあなたの話は非常に参考になりました。これによって私はたくさんの執着心を取り除くことができました。お宅を訪問した時、部屋の中は大法資料がいっぱいでした。こんなにたくさん大法の仕事をされている上に、子供の面倒も見なければなりません。御主人は不満を何にも言われませんか。この数年来、あなたはずっと大法の仕事をやり続けてきましたし、ご主人も経済面から積極的に協力してこられました。どうしてこんなに根気良くできたのでしょうか。”私はこの話に対して次ぎのように説明した:“私と主人の間に矛盾も衝突もありました。しかし、心の中に怨みはありません。もし何か引っかかることがありましたら、必ず冷静さを取り戻してから、自己反省を通してそれを取り除きます。”
法を実証する四年の間に、私は数多くの国や地域に行ったことがある。真相資料も配り続けてきた。主人はいろいろ助けてくれた。だが、私たちの間に、時に矛盾もかなり激しかった。意見が合わない時、争うこともあったが、毎回争うことによって、互いに心性の向上を促した。結局、心性の向上ができたことに互いに感謝するようになった。ある日、喧嘩したばかりの時に、私は主人に言った:“今日は大法資料を取りに行きますから、車で連れて行っていただけますか。”そうすると、お互いに笑いあって何にもなかったかのようになった。
怨む心を取り除かなければ、家庭内にトラブルが起きやすく、旧勢力にも狙われやすい。従って、我々の正念を乱し、全体の協力の効果が発揮できなくなり、学習者の間に隔たりも生じやすい。今後の交流会で全部がこのように率直に交流できることを願っている。
三
子供弟子の修煉を放任してはならない。学校の勉強のため、ある程度の影響があるが、重要なのは親の子供に対しての責任を全うすることである。
主人は私たちの2歳の子供を甘やかせ過ぎて、たくさんの玩具やビデオCDを買って与えていた。子供は毎日託児所に行く前にビデオCDを見る。そして、託児所から帰ってからも見る。たまに私がテレビを見る時にも、子供は私と争ってビデオCDに換えたがる。そうさせなければ、泣いたり暴れたりする。遊び終わった玩具をあっちこっちに散らかしてしまう。外出の時、玩具を見かけたら、何でも買ってもらいたがる。買ってもらえなかったら、泣いたり暴れたりして、家に帰らない。ベッドで牛乳を飲み終わると、空瓶をそのまま床に捨ててしまうなど、子供のわがままは日毎に増していく。
私は主人と話して、子供を愛する執着心によって、放任するべきではないと反省した。そして、我々は子供用のすべてのビデオCDはしまっておき、テレビを見る時にも、子供の思うままにチャンネルを変えさせない。子供は暫く暴れていたが、その後再びテレビをみる為に我々と争うことはなかった。遊んで終わった玩具も、自分で片付けるようになった。
法を正す時期に、子供を遅らせないように、動物園や観光の名所へ行く時、子供に大法の印字がある衣服を着させて、洪法の効果を発揮させる。旅行客に真相説明に行く時、子供にも資料を配らせる。旅行客は子供が配った資料は受け入れやすく、時に子供と一緒に写真を撮りたい旅行者もいる。ある日、家に帰る途中、一人のインド人が急いで私たちの前を歩いていた。子供は一生懸命に追いついて真相資料を渡した。
日曜日、子供を明慧学校に連れて行って、他の地域の子供弟子と一緒に法を学んだり、煉功をしたり、明慧ネットの動画を見たりさせた。隣の国や地域に大法交流会があれば、子供を連れて一緒に参加するようにしている。
殆ど毎晩私は主人と一緒に法を学んでいる。子供にも法を学ぶように教えている。始めの頃、子供はなかなか落ち着かず、邪魔するし、一緒に遊んでもらいたがった。我々は子供の要求に応じないで法を勉強し続けた。徐々に子供は夜の時間が法を学ぶ時間であることを納得し、邪魔せずに一人静かに玩具で遊ぶようになった。時に我々の傍で両手を結印して坐ることもある。
『法輪佛法・長春補導員法会での説法』の中に子供の教育に関する説法があった:"問:子供をしつけても言うことを聞かないのですが、これ以上言うことを聞かなければ、好きにさせます。これは正しいのでしょうか?
師:完全に正しいのではありません。子供を放任することは親の犯罪です。今日の人類社会はここまで変わってしまいましたが、皆さん一代一代の人々と全く関係ないとは言えません。皆さんに教えますが、子供をしつけなければなりません。アメリカという社会では、法律に縛られて子供をしつけることができなくなり、しつけたら法律違反したかのようです。ですから、子供をそのまま放任しています。このような子供は礼儀はおろか、最も基本的な人間としてのものさえ知らないのです。将来どのような人を育てるのでしょうか?しかし、皆さんに教えますが、中国では必ず子供をしつけ教育しなければならず、放任してはいけない、という伝統があります。叩いても叱ってもいいのですが、修煉者が怒ってはいけない、ということを言っています。子供をしつけてもよいのですが、あなたは気分のいい時に子供を叩いても、笑いながら子供を叩いても、彼は痛く感じます。その目的は、子供に一つの教訓を与え、悪事を働かないようにするためです。子供を教育するのは間違いではありません。考えてみてください、これは自我に執着しているのではなく、社会のためにも、未来の人類のためにも良いことをしています。しかし、執着しすぎたら、また他の極端に走ることになります。つまり、子供をしつけることは間違いではありませんが、理性的に行うべきです。”
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