《論語》を繰り返して暗唱するのは限りなく楽しい
大陸大法弟子筆
【明慧ネット8月11日】私は同修に、そして自分自身に聞いてみたことがある。「師父のどの経文が最もよく暗唱出来るか?」通常の答は「論語」である。論語は最もよく暗唱され、最もよく読まれる。それから次の問は「どの経文が最も暗唱し難いか?」 通常の答はやはり「論語」である。理由は簡単で、それはあまりにも流暢に暗唱出来るので、想像が湧いて来て、乱雑な考えの中にうかつに終わってしまいやすい。それでは私達は本当に暗唱しているのか? 各人だけが知っている。
監禁された環境で同修達が最もよく暗唱したのは、恐らく論語だろう。監禁される前は、私は多くの経文と転法輪の最初の二講を暗唱した。師父が講ずる論語は転法輪全体を含有する事を知っていたが、論語を学ぶことは、他の経文を学ぶ程効果的ではないと思っていた。論語を学ぶ事に対し、重要視出来ないでいた。
労教所に入って二ヶ月程経った頃のある晩、夢を見た。通りを歩いていて、道端の本屋で私は適当に一冊の本を手に取った。音楽を紹介する本であった。本を開くと写真があった。一人の指揮者が大楽団を指揮していた。この写真を見ると、それは生演奏となった。テレビのスクリーンの様で、私は生の演奏を見た。夢から醒めて、これは何か意味があると思ったが、それ以上深く考えなかった。暫くしてから漸く、私はそれが何を意味するのか分かった。
実は異なる空間と異なる次元において、生命達は異なる情報伝達法と能力をもつ。私達の空間を突破すると、法が生命に与えた環境と創造力も変化する。だから私が夢の中で見た本の様に、一枚の写真の中に音声、画像、そして臨場感があった。それでは更に高い次元の場合はどうか? 師父は言った。「覚者たちが出合うと、互いににこりと笑うだけですべて分かり合えます。これは無声の思惟伝達ですが、受信したのは立体音声を帯びたものなのです。二人がにこりと笑った瞬間に意見交換が無し遂げられたのです。」〔転法輪第三講〕
私は初めて理解した、その一笑の中には、無数の乾坤の変化があり、何千年もの歴史があり、無数の経験と変貌がある。全てが一笑の中で疎通される。その智慧と能力は、低次元の生命には決して想像出来るものではない。
師父は人間社会にて大法を伝える。過去においては神でさえ知ることのなかった、そのような奥深い法理を、最も低い次元において人間の言葉で表現するのは、非常に難しいに違いない。「常人の言葉で奥深い法理を表現するのは難しいのです。」(随意に用いる、精進要旨) この〈難しさ〉は師父が表現しにくいことのみでなく、実は私達学習者にとっても難となる。何故なら何千年来に形成された根深い観念が、法理を真に理解する為の障碍となっているからである。
例えば、師父が論語の中で「宇宙」という言葉を用いた。以前この言葉を見て、読んで、暗唱した時には、私は自分が知る「宇宙」概念をもってそれを理解しようとした。しかしこの中には、現代科学によって形成された観念や、肉眼で見て感じたものがあり、更に長い生命の年月の中で形成された所謂「智慧」等もある。自分の観念をもって「法」を理解しようとする現象は、それが習慣となってしまっているので、なかなか察知しにくい。過去、論語を暗唱する時に、私は頭を使わずに出来た。それは私が自分の観念をもって、論語を含む全てを判断していたからである。私は論語が転法輪全体を含む事を知っていたが、それは単なる表面的な認識に過ぎなかった。
私は徐々に師父の苦心を理解し始めた。師父は人間の言葉で宇宙の真相を表現している。再び論語を暗唱すると、私は全く違った感じを持つようになった。「佛法は人類が無限の世界を洞察する手引きになります」の一句は全てを現わした。真相がどれだけ見えるかは、私達がどれだけ観念を放下出来るかにかかる。私は繰り返し論語を暗唱するのを、限りなく楽しんだ。それは労教所での苦をより忍びやすくした。論語の暗唱を楽しみ始めてから、周囲の問題も消えたようである。
現代科学の堕落した観念を取除く
論語を暗唱することの第一の収穫は、堕落した科学観念を自分のなかに見つけ、取除いたことである。私はコンピューター・エンジニアである。法輪功の修煉をする前は、最新科学動向を理解する為に、科学に関する本を読むのが好きであった。修煉を始めたきっかけは、科学者である学習者の体験を読んで、修煉に興味をもったことにある。私は現代科学に基づく観念による自分の思想業が大きいことを知っていた。科学者達が大法を攻撃しようとする度に、私の思想業が同意しようとするのに苦しく抵抗し、常に防御に立った。
論語の中で師父は直接現代科学の本質を指摘した。「今日、科学に対する人類の考え方は、科学の発展を物質の世界だけに限定しています。認識された物事のみが研究の対象になる、という方法がとられているのです。」 見えれば信じるという観念が無限の物質的利益追求に充満し、宇宙の特性、真善忍、に全く反している。「信じることが、見ることより先です。」(法輪佛法 ─ カナダ法会での説法) どんな生命も自分より高い次元の法理と情景を見ることは出来ない。何故なら、もしも見えたなら、既にその次元に居ることになるから。師父を信じ、大法を信じ、高い法理をもって自分に要求し、良くないものを取除けば、浮き上がり、見ることが出来る。この点から見れば現代科学が与える思想は、根本的に間違っている。
論語を暗唱していて、科学の由来、宇宙人の歴史、そして旧勢力とこれらの関係を知るようになった。「コンピューターがどんなに発達しても、人間の頭脳とは比べるべくもありません。」(論語) いかなる生命でも、決して同等の智慧を持つ生命を創造することが出来ないことを、私は悟った。一念で宇宙を創ることの出来る非常に高い大覚者でさえ、自分と同じ次元の生命を創り出すことは出来ない。何故なら、生命を創造する智慧と能力は、更に微視的要素から来るからである。宇宙人が自分の智慧によって現在の科学技術水準に到達することは、根本的には出来ない。人は動作を練習するだけで功を伸ばすことが出来るか? 宇宙人は単に科学実験をするだけで、真善忍に反しながら他の空間を突破し、時空を制御する能力を獲得出来るか? 更なる高級生命 ─ 旧勢力 ─ の保護と参入が無ければ、彼らはもっと早くに解体していただろう。
科学実験を通して新しい科学技術を掌握することは、単に動作をすることで功能を得る、又は努力して富貴を獲得するのと似たような、この空間における幻想である。これら一切はこの空間の、更なる微視的要素の作用による現れである。「はるかなる万世を通して、迷いの中に堕ちなかった人はどれくらい居るだろうか。」(転法輪第二、仮訳)
自分の思想業の根源を知った後、私は毎日正念を発してそれを取除いた。数日中にそれらはきれいに取除かれ、根本的に何の作用もしなくなった。
無神論の根源を意識する
第二の収穫は、無神論の毒を私の中から徹底的に取除いたことである。私は所謂「紅旗の下に生まれ、新しい中国で生長した」年代の人間で、その長期的な無神論教育は、一体どれ程影響したのか? 多くの人が邪悪に屈服し、妥協したのは、皆このようなものをきれいに取除けなかったからである。肝心な時にそれが作用し、学習者の意志を砕く。無神論は実質的に人間の本性を否定する。人間の生命は神から与えられ、純正の善から来る。神の存在を否定することは、自分の根源を否定し、その善良な本性に反逆することになる。無神論は高次元の堕落した生命に由来すると、私は信じる。更に高い次元の法理の存在が見えず、信じられず、自分が見えるものや有するものは、絶対に正確であると思い、尊大になってしまった。それが人間社会に反応すると、無神論となる。私はこの無神論も一種の物質的存在であると悟った。それがどのくらい私の空間場に存在しているのだろうか? 考えただけでも怖くなる。早く正念を発して取除こう。
私は毎日「限りなく楽しく」法を学び、論語を暗唱した。毎日新しい認識があった。そのような内から外へ、そして本源から表面に到る生命と法の同化がもたらす「喜び」は、人間の言葉では表現出来ない。多くの同修はこのようなことを理解出来ると思う。
何が私が精進し続けるのを妨げたのか?
ある期間が過ぎて、だんだんと私は如何に論語を暗唱しても、法を勉強しても、新しい認識を得ることが無くなったことに気付いた。以前のように猛進的に精進出来る状態を維持出来なくなってしまった。過去においては、このような状態に出逢う度に、修煉出来た部分は「隔離」されたのだから、正常な現象であると思った。その後再び法を学ぶことによって、修煉は回復した。多くの同修と交流し、皆も同感であった。このような状態に到ると、どうしようもなく感じるものである。
しかし私は、今回はもっとよくこれを検討する必要があると感じた。何が私が精進し続けることを妨げているのか? 「『自然』ということは存在せず...」 (精進要旨、道法) 私は自分を静め、主意識をはっきりさせ、静かに内面を探した。私の主意識が冷静に一切を見つめている。この時私はもう一人の「自分」を発見した。私が法を勉強している時、「彼」も又法を勉強しており、彼は法からもっと高い、新しい認識を得ようと努力している。しかし私の本当の自我は何処に居るのか? 法理に基づいて測ってみよう。私の生命を構成している全ての要素を含み、一層一層の異なった微粒子が構成した全ては、この法が造り出したものであると、私は気付いた。それなのにまだ何を法から得ようとしているのか? どの次元まで悟るに到ったかにかかわらず、どれだけの能力と智慧を持つかにかかわらず、更に高い次元から見れば、私は「まるで砂のような小粒の形状で、動いていて、」(転法輪、第二講、天目について)、なのである。私は何処に? 法が全てを造ったのではないか?「真善忍という特性を持った宇宙空間は本源的に善良なものであり、人間も生まれた時は、宇宙と同じ特性を持っています。」(転法輪、第一講、本当に高い次元へ人を導く) 私の本性は法と溶け合って一体となっているはずで、法から自分が必要なものを探す、という考えはない。
法は私の主意識に慧眼を与え、この執着を見破ることをさせた。再び論語を暗唱すると、私は全てをその中に投入した。まるで一枚の木片が鉄の溶液の中に投げ込まれたように、私は自分の一切を、それが正であろうと不正であろうと、本性であろうと後天的なものであろうと、保留することなく、求めることなく、全てを法に手渡した。その瞬間、「法の中に溶け込む」とどれだけ幸福であるかを知った。その後正念を発する時は、口訣に集中することは無くなった。代りに自分がこれらの口訣「法は乾坤を正し、邪悪は全滅する」に化した。正念が天体中を無辺に満たし、全てを含有し、漏れるものは無かった。
法を学ぶとこのようになるのか!
毎日大きな変化が起きているのを感じる。振り返って見ると、元の自分が見知らぬ人のようだ。このような大きな変化がたった1ヶ月中に起きたのだ。「法を学ぶとこのようになるのか!」とつくづく心の中で驚かずにいられない。
過去の法の勉強において、私は肉眼で見えるものは全て「幻覚」であることを知った。では、真相はどうなのか? 「『天目』が開くと、ものを拡大して見ることができます。」(転法輪第一講、煉功してもなぜ功が伸びないのか) 例えば、肉眼で悪人を見た。これは天目で見ると、邪悪の鬼と見えるが、実際にはもっと微視的空間で見ると、高い次元の生命がその鬼を制御しているかもしれない。天目の次元が高い程、もっと真相が見える。ではここに問題がある。第一にもしも天目が見えなければどうするのか? 第二に例え天目が見えたとして、見えたものが真相だと誰が言えるだろうか? 旧勢力の偉大な神達は神通力が大きく、下の次元で見えないものは無く、出来ないことも無い。しかし、彼らは真相を見たのか?
どうすれば良いか? 師父はその方法を教えてくれた、「正念を持って問題を見る」。
「宇宙のあらゆるものは、宇宙の理、真善忍、によって造られました。全ての物質や生命の全ての要素はこの宇宙の特性、真善忍、によって造られ...」(米国中部法会での説法)
私達が目の前に見えるもの、感じるもの、感じないものの真相は何であろうか? それは、真善忍、ではないだろうか? 師父はこれらの三文字を私達の目の中に刻み込みはしなかったが、もしも私達がこの三文字をもって一切を判断できるなら、全ての真相を見ることが出来るのではないだろうか? そしてそれが正念中の正念である。
その冬、私は洗脳されるのを拒否したために、労教所中で最も暗い冷たい部屋に入れられた。長年の迫害のために、私は極度に衰弱しており、胃の痛みが耐え難かった。ある日気温が急に下がって、骨までしみるような寒風が激痛と一緒になり、人間地獄のように感じた。しかし、冷静になって正念をもって情況を見ると、環境が如何に悪く見えても、真善忍、の三文字の外に存在出来るものは何もないことに気付いた。
実は、真善忍、の特性に背けば、如何なる物質と生命も全て自滅する。何故なら、全ての生命と物質、そしてその智慧と能力は、この特性がもたらした更なる微粒子によって構成されているのだから。宇宙特性から離反すれば、自己解体となる。悪人が大法と師父を罵る時、真相を知らない人々が大法を憎む時、旧い堕落した高次元の生命が大法を試し始めた時、彼らは大法に背いており、自滅しようとしたのである。彼らの生命は大法によって維持されていたのだから。しかしながら、大法と師父は衆生に何度も機会を与え、彼らの生命を維持して来た。なんという慈悲であろうか。人類のあらゆる言葉と形容詞を用いても、形容しきれない。
正念をもってこのことを考えると、比類なき幸福を感じる。厳しい寒さの冬も、暑い夏も、陽光、緑樹、良い人、悪人、大法弟子迫害に使われる牢獄の部屋や道具等全ては、舞台劇の中の一場面の道具と人物にすぎない。一切はこの法から抜け出すことが出来ない。私にとって「法」はもう数冊の本だけではない。私自身及び私の周囲の何層にも重なる要素、一切の物質、及びどんなに智慧を絞っても想像できない無限に広い大空の一切、これら全ては法の中の粒子である。これらの全てを黙々と見て、知らずに涙が溢れた。
「実際のところ、経典に書かれたものは『佛法』の初級次元の法にしか過ぎず、『佛法』のすべてではありません。『佛法』は粒子や分子から宇宙まで、最も小さいものから最も大きいものまですべての奥義についての洞察であり、それに含まれないもの、漏れるものも何一つとしてありません。それは宇宙の特性『真・善・忍』の異なった次元での異なった表現であり、道家の言う『道』、佛家の言う『法』も、すなわちこれにほかなりません。」(論語)
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