日本明慧


師を敬い、師の肖像を敬う


文/英国の学習者

【明慧ネット2003年10月4日】私は最近あることを思い出して深く考えました。迫害が始まった当時、請願に行く学習者を北京行きの汽車に乗車させないように、改札口の通路に李先生の写真を床に置き、通行する人が踏みつけて通らなければならないという報道を明慧ネットで多く目にしました。引き返した学習者もいたでしょうし、その場で踏みつけることを堅く拒否したため、逮捕された学習者もいました。

当時、この迫害は既に至るところまで及び、江沢民政権がいかに邪悪であること、そして、学習者が北京へ請願に行くことに対して、極めて恐れていることの現れであると感じました。しかし、このことを再びよく考えてみたところ、李先生の《2003年旧正月十五日米国西部法会での法の解説》でのお話を思い出しました。李先生は、「あの時、『転法輪』は中国大陸にたくさんあって、至るところにありましたが、多くの学習者は本を敬っておらず、常人はなおさら本を敬っていませんでした。神はこれを見ていられないのです。なぜならば、これは宇宙を作り出した天法だからです!」とおっしゃいました。

内に向かって反省しながら、北京駅であった情況を想像しました。そしてあることに気が付きました。当時、李先生に対しても、李先生の写真に対しても、十分に尊敬していなかった為、旧勢力の行為を助長させたのではないかと感じました。そして、邪悪は消滅されつつ、私たちもより成長した今日、過ぎ去ったこととは言え、このような理解と感得は強い印象が残りました。法を正す時期に自分たちが持つべき責任の本質に対して、より深く理解することができました。それは、衆生を済度することに深く関わっていることのみならず、自分自身の責務ではないかと思います。自分の執着を根本から取り除き、修煉に打ち込み、邪悪に影響されないように励まなければなりません。振り返りますと、自分の不足が、李先生の尊い写真を踏みつけられる口実として、利用されたということに、たまらなく恥ずかしい思いです。