補う
大陸大法弟子
【明慧ネット2003年10月13日】明慧ネットにかつて載っていた文章でこのような感想文があった:我々は出発点を正しく整えるべきであり、如何なることをしても、大法を守り、大法を証明し、真相を伝え、衆生を済度する角度から出発しなければならず、かつて誤りを犯した学習者は単純に自分の損失ばかりを考えるだけでなく、如何にして自分の誤りで大法にもたらした損失を補うかを考えるべきである。これに対して、自分の感想を書き出し、皆さんと分かち合いたい。
自分もかつて誤りを犯した。しかも現在でもあることをまだうまく成し遂げていない。私自身もかつて後悔と自責に陥り、なかなか自ら抜け出すことが出来なかった。法を学ぶことと同修との交流を通じて、これは正しい状況ではないと認識した。しかもこの状況自身も旧勢力の按配そのものであった。その根を深く掘ると、この状態は他でもなく自分の得失を心配する心の真実の反映であると認識した。誤りを犯したら、この誤りが周りの常人にどのような影響をもたらし、自分に限りない希望を抱いている衆生にどのような結果をもたらすか、あるいは大法にどのような損失をもたらすか等々を考えずに、自分の損得ばかりを考量していた。また、法を学ぶことを通じて、誤りを犯した後の後悔と自責の裏には情と私が隠れていることを意識した。常人社会で子供が誤りを犯したら、親の許しをもらうために親の前で後悔の涙を流す。私もこのような方式で師父の許しを得ようとしており、師父に自分の犯したすべての罪を消してもらいたいと思ったからではないだろうか?
後悔と自責は何も補うことが出来ない。それはただ自分を正そうとする出発点に過ぎない。もし長期にわたってこの状態に陥ると、それは他でもなく自分に責任を取らず、衆生に責任を取らず、旧勢力を認めるものである。誤りを意識し、出発点を正したら、ずっとそこに留まるべきではなく、衆生のために直ちに立ち上がるべきである。
真相を伝える過程で、私はいつも個人次元の高まりと個人の威徳の樹立という出発点にたって大法を証明することにしている。例えば、自分はメールアドレスを収集したら、自分に大量発信の条件が整っていないから、明慧ネットに転送した。自分の自らやったことではないから、なんとなく心にわだかまりがある。私は衆生の救われることを思っていなかった。いつも思っているのは自分が如何に威徳を樹立するかのことであり、これを思うたびにとても恥ずかしくなる。
師父は「更に執着を取り除く」でこのように説かれた:“わたし達の学習者、大法の仕事をする人達を含めて、大法の仕事の為であっても、皆さんも互いに嫉妬しあっていますが、それで佛になることができるのでしょうか?わたしが緩やかな管理を行なうのはあなたがその常人の心を放下できないため、大法の仕事をする時に心の中で平衡を失ったからです。大法は全宇宙のもので、その小さい小さい個人のものではなく、大法の仕事を誰がしても大法を弘めているのです。人がやったとか、自分がやったと言う必要があるのでしょうか?皆さんはこの心を取り除かないまま天国に持っていって佛と争うのでしょうか?誰も大法は独占することができず、その平衡でない気持ちを取り除きましょう。心の中で何かの事で気になっている時、執着心で引き起こされたことではありませんか?我々の学習者は自分と関係ないと思わないでください!”その根源を考えると、自分は大法を第一位に行わず、衆生を済度することを第一位に置かないで、個人の修煉状況から抜け出していない現れであった。
実は、自分はインターネットを通して真相を伝える事において、今まで重視していなかった。よく分析すると、インターネットを通して真相を伝えるこの方式は簡単であり、自分はできるだけより苦労な仕事をすべきであった。なぜなら苦労な仕事をすると、より大きな威徳を樹立することができるからである。原因はまだ私である。ある弟子はかつてこのように語った:現在数多くの弟子は経済的に困難であり、旧勢力もこのような困難な状況の下で大法弟子が大法を証明するのはより大きな威徳を樹立することができると考えている。旧勢力は個人修煉を第一位に置いているが、彼等の強調したのは個人次元の高まり、個人威徳の樹立である。この考えは実に衆生を済度することを妨げている。我々は何故旧勢力にコントロールされるかと言うと、我々のある考えは彼等と一致したからである。つまり、我々はまだ個人修煉の枠から完全に飛び出していないからである。
最後に、師父のフィラデルフィア交流会での解かれた法を再び温故しましょう。“大法弟子は常人の世間での修煉の中、法理に対するはっきりとした認識を持っています。つまり、常人の得失に執着しないことです。法を証明することにおいて、どうしても自分の意見を出さなければならず、私がどうしてもこうしたいああしたいと思い、それで始めて宇宙で威徳を樹立することができる、というようなことではありません。あなたに良い方法があり、それを考え出したので、あなたは法に対して確かに責任を持っています。しかし、あなたの意見、方法が採用されるかどうかは重要ではありません。他の人の方法を用いても同じ効果に達し、自分の方法に執着せず、かえって他の人の方法に同意し、あなたは自分の方法を言っても言わなくても、神にはそれが見えるのです。「ほら、彼には執着の心がなく、こんなに度量があって寛容なのです」という具合です。神は何を見るのでしょうか? まさにこれではありませんか? 自分を強調することに執着している時、あなたは即ち一途に思い込んでいます。神は天上でそれを見てたまらなく思いますのです。あなたはそれが大法のためだとか、私の方法が良いとか、何かの目的に達成することができると一点張りで言っても、本当にそうかもしれませんが、あまりに常人化しすぎた執着があってはいけません。本当にこれができれば、神たちもこの人は素晴らしいと言うのです。神はあなたの方法が役立ったのを見て次元を上げるのではなく、あなたがこの問題に対する認識を高めたのを見て次元を上げるのです。これが即ち正法の理です。私にこれほどの功労があるから、あれこれができる、ということは常人にとって確かにそうなのかもしれません。しかも、宇宙の法理のある特徴、ある特殊な環境の中でこういうこともあるかもしれません。しかし、真の向上は放棄することであって、得ることではありません。”
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