日本明慧


学習者が捕まり迫害されることを如何に扱う

長春大法弟子・法成

【明慧ネット8月16日】最近、一部の学習者と交流するとき、いくつかの言論を耳にした。例えば、もしある学習者が捕まって迫害されたら、この学習者には問題があると決め付けている。そして、「理性に欠ける」、「学法が足りない」、「人情が重過ぎる」などと言っている。まるで捕まり迫害されることが恥ずかしいことのような取り方をする(勿論これは光栄あることでもないが、両極端も良くないし、同じく人心の反映だと思う)。学習者が迫害されることより、大法弟子全体がまた上昇すべきだと思わず、捕まった学習者の大法への真心を見ず、自分の不足に照らしていない。さらに自分の修煉にまだ何かが欠けているのも、ほかの学習者が捕まる原因になる(直接か間接)のを悟らずにいる。かえって、真相を教え大法を証明するのを随分減らしたり、「口で真相を教えることにする」などで、言い逃れしたりしている。一部の学習者は大法のことを出来るだけ他人に押し付け、自分はできるだけ少なめにしている。肝心の時や問題に面すると、遠まわりして避けるようにしている。見た目には、落ち着いて問題がないけれども、実はたくさんのものが修煉によって取り除かれていない。たくさんの関門が乗り越えられておらず、修煉の境界が上がらず昇華されてない。それなのにほかの学習者に問題があった時は、上げ足取りをして消極的な影響を与える。私の観察によれば、ここで取りざたした者のほとんどは遠まわしをしている。我々は冷静に自分の言論を反省すべきだと思う。

学習者が捕まり迫害されることは、確かに学法が足りないか、もしくは他のなにかの不足で邪悪にすきに乗じられるのが原因である。しかし、その学習者達は一時的にすきに乗じられても、邪悪の前で強大な正念を持って邪悪を抑制し大法を証明し、すぐ正念で抜け出したのも事実である。それで、もともと悪いことが法を証明する壮挙に変わり、ほかの学習者を奮い立たせ、世の人々を済度することになる。一時抜け出さない学習者がいても、これらの学習者達を自分より良くない、などと思ってはいけない。その学習者は精進の中にあり、何百里も進んでいて、不注意で転んだが、貴方は数里しか進んでいないかも知れない。しかも多くは遠まわしをしているので、先の道は貴方にとってはまだ未知なのである。

大法弟子として、返本帰真の道をどれほど歩んだとしても、師父の要求に照らして自分の不足を求めるべきだ。自分の不足を求め、みんなと一緒に向上し「三つのこと」をよくなし遂げることに心がけるべきだと思う。また、ほかの学習者の教訓を自分の道をよく歩む貴重な財産に変えて、遠回りの道を少なめしなければならない。そしていかに捕まった学習者を救援するかも自分の修煉に解決すべき問題として扱わなければならない。