日本明慧


師父の経文の引用から師父と法に対する敬いを論じる

【明慧ネット2003年11月8日】ネット上で発表する同修の文章を見ると、文章の全てで師父の経文を自分の観点を表現するために利用しているように思われます。そして、ある同修の間でもお互いに交流を行う時、いつも師父の経文を自分の観点を表現する道具と見なしています。自らは気づいていないと思いますがある同修が相手の問題と欠点を指摘すると相手は、師父のある経文を持ち出して自分を弁護します。(当然、ある時同修が自分の言葉ではどうしてもはっきり問題の本質を説明できない場合は師父の経文を引用することは避けられません。しかし「文章を書く」のであれば、文章全編に引用するのは良くないと思います。)

大法は広くて深い学識を内包しています。私達が勝手に文章や経文の前後の意味を顧みずに、自分に都合の良い部分だけを引用して、考え方ややり方が度を越して激しく一方的に個人の目的と利益のために使ってはいけないのです。さもなければ師父と大法に対して尊敬していないことになります。私達が本当に修煉の中に溶け込んでいる時、大法を実証する過程で師父の経文は私達を目覚させてくれています。師父の経文はまぎれもなく私達の生命のミクロに打ち込んで本質から私達を変えてくれます。今後私達が文章を書く上で引用を通じて同修を目覚めさせる場合は、過度に非難すべきではありませんが、自分の意見と考えを簡単に述べるための利用であれば、その中の目的は純粋ではないと思います。師父の経文を自分の文章に積み重ねることは「我」と「私」のための現れであり、これは大法を利用していることです。

師父と大法を尊敬することは口先だけではありません。心の奥底から生じた実際の行動のなかで私達の思いや念が正しければ私達の一挙一動はすべて良く行えると思います。なぜなら、私達は同時に最も偉大な法が育成した生命であり、同時に師父の弟子であるからです。私達の現在における一挙一動は、大法弟子の形像であり、私達が現在していることすべては未来の生命の参照であります。だから私達が現在していることすべては深遠な歴史的意味を持っています。

大法は厳粛なのです。法をよく理解出来ていない人の心に利用してはいけません。私達は大法を利用して自分をよくしようとするのではなく、無条件に大法に同化して、一歩一歩しっかりと歩んで正しく行わなければなりません。